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執筆者:荒川 光一

「みちくさ」江戸歳時記3

紀文稲荷今日、気象庁より関東甲信越地方の梅雨明け宣言がありました。暑さよりも、夏の青い空と湧き立つ雲に誘われ、久しぶりに散歩に出かけました。

いつものように、スタートは会社の目の前の小さなお稲荷さんからです。木陰が涼しそうなので初めてお参りしてみました。なんと鳥居はミカン色なのです。鳥居の扁額を読むと「紀文稲荷神社」と刻まれています。驚くことに、元禄時代の豪商紀国屋文左衛門が京都伏見稲荷神社より御璽を拝受し、お祀りしたといわれている稲荷神社でした。

紀伊国屋文左衛門の店は八丁堀にあり、その下屋敷が現在のみずほ銀行深川支店あたりにありました。当時この付近一帯は運河が縦横に走り、此処に紀国屋文左衛門の船蔵があり、航海の安全と商売の繁盛を祈ってこの地にお稲荷様を祀ったものです。

紀伊国屋文左衛門は、紀州よりミカンを江戸に運び、また材木商として明暦の大火に木曽の木材を買い占め巨万の富を築いたことで紀文大尽として有名です。

しかし、その後、貨幣鋳造に関わる失敗や深川の材木置場のたびたびの火災による損害により材木問屋は廃業しました。紀伊国屋文左衛門自体は、数々の小説、演劇、川柳が残っていますが、その生涯ははっきりせず、出生没年も分かっておりません。

近年、郷土史研究家や歴史学者の研究が進み、廃業後の生活が明らかになってきました。深川八幡の一の鳥居北側に隠棲し、素封家として貸家を営む一方で、風流な俳諧の生活に生涯を過ごしたようです。

紀伊国屋文左衛門とミカンとお稲荷さんには面白いつながりがあります。紀伊国屋文左衛門がミカン船で大儲けをした背景には、当時鍛冶屋や刀鍛冶などを初めに火を扱う職人たちが稲荷神社で行った「鞴(ふいご:鍛冶屋などが火を強く起こすための道具)祭り(118日)」にミカンが撒かれ、そのミカンを食べると風邪や麻疹(はしか)にかからないという俗信があったらしいです。その時期になると、稲荷神社の数が多い江戸ではミカン不足となるため、紀伊国屋文左衛門は大博打を打って、故郷の紀州からミカンを運び巨利を得たといわれています。

散歩コースである稲荷神社清澄庭園目の前の西大島川運河沿いをさかのぼっていくと、紀国屋文左衛門の別邸跡と言われる東京都の「清澄庭園」に突き当たります。今の季節、公園では百日紅の花が咲き誇り、水面をなでる風と共に暑さを紛らわしてくれます。

そして、公園の最寄の駅である地下鉄「清澄白河駅」近所の深川江戸資料館のそばにある小さなお寺、成等院に紀伊国屋文左衛門の記念碑と墓があります。「紀文大尽」と言われた紀伊国屋文左衛門の墓としてはあまりにも小さなものです。紀伊国屋文左衛門についての歴史的研究は進んでいますが、いまだ詳細は分かっておりません。この墓についても、「墓所一覧遺稿」という本に、紀伊国屋文左衛門の墓だと記載されているだけで、「清澄庭園」別邸説と同様に、伝説の「紀文大尽」の墓であるかは不明なのです。文左衛門

しかし、巨万の富と豪遊・没落とういう男のロマンを感じさせてくれる、伝説の豪商紀伊国屋文左衛門知る手かがりとして貴重な場所と思います。東日本大震災の傷跡がまだ修復されないままであることに、寂しさを感じながら帰途につきました。

 

これで安心!事業承継M&A・虎の巻」(第6回)

経営承継は中小企業の経営者にとって避けては通れない大きな経営課題です。
経営承継事業部では円滑な経営承継のお手伝いを致します。

経営承継事業部は、平成21年の「これで万全!経営承継・虎の巻」(24カ月連載)、平成25年の「これで納得!経営革新・虎の巻」(12カ月連載)に引き続き、平成26年は「これで安心!事業承継M&A・虎の巻」の12カ月連載を開始しました。
副題は、「中小企業の上手な会社の売り方」として、売手の立場に立ったM&Aの連載になります。掲載誌は、株式会社ぎょうせい発行の月刊誌「税理」(日本税理士会連合会監修)です。
6月号の執筆者は中小企業診断士 荒川 光一、テーマは、「これで安心!事業承継M&A・虎の巻」(第3回)「M&Aにおける中小企業の価値評価)」です。

  1. 企業評価の3つの価値

  2. 中小企業の事業承継M&Aの価値評価

  3. M&Aの売買価格の決定要因

  4. 納得できる譲渡価格を得るために

詳細は「税理6月号」をクリックしてみてください

税理6月号

 

 

 

 

 

「みちくさ」江戸歳時記2

立春を過ぎたばかりなのに、東京は45年ぶりの大雪でした。陽射しの暖かさに誘われて、雪の残る中を今日もウォーキングに出かけました。西大島川筋には、例年よりも早く紅梅・白梅の花が満開を迎え、真っ青な空と雪に映えまぶしく咲き競っていました。梅の香りに誘われ、今日は遠出しようと思い立ち、芭蕉庵跡を目指すことにしました。

芭蕉庵は、徳川家康の命を受けて開削された、隅田川と中川を結ぶ運河の小名木川のほとりに建てられていました。芭蕉庵近くの小名木川にかかる橋が、北斎や広重に描かれて有名な「萬年橋」です。藤沢周平の「橋ものがたり・約束」にも登場しています。さらに、この橋の北岸には、時代劇小説にもたびたび出てくる、航行する船を取締る船番所(その後中川に移されたため「元船番所」といわれる)も置かれていました。

橋を渡ると、橋の北側に芭蕉稲荷神社が祀られ、芭蕉庵旧跡として往時を偲ばせてくれます。1917年(大正6年)津波来襲の後、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が偶然発見され、地元の人々の尽力により、ここを芭蕉庵跡と推定し祠に石蛙を祭り、芭蕉稲荷として祀られたものです。芭蕉が隠遁生活を始めた芭蕉庵は、萬年橋近くの生簀(いけす)番の小屋を改築したものでした。その後、火災などに見舞われ2度ほど建替えらました。ところが芭蕉没後、芭蕉庵は武家屋敷の一部となり、幕末、明治にかけて滅失し、その場所は長く行方不明になっていたのです。芭蕉庵のいわれは、門人の李下から芭蕉一株を贈られ、芭蕉の葉が見事に繁って名物となったことから、草庵を「芭蕉庵」の庵号で呼ぶようになりました。この時から芭蕉は、「桃青」を改め、俳号として「芭蕉」を使用するようになりました。「李下、芭蕉を贈る『ばせを植ゑてまづ憎む萩の二葉かな』」と詠んでいます。

芭蕉は、1680年(延宝8年)から1694年(元禄7年)の大阪で病没するまで間、芭蕉庵を本拠として、庵住と行脚の生活のくり返しながらの名吟の数々を残したのです。かの有名な「古池の句『古池や蛙飛芭蕉稲荷びこむ水の音』」も、この芭蕉庵で1685年の春に詠まれました。

立春とはいえ、隅田川と小名木川が出会う芭蕉記念公園に立つと、風は冷たく、河岸の雪はまだ春が遠いことを伝えています。しかし。そんな隅田の流れを芭蕉翁の像は、春の訪れを待ちかねるかのように眺めていました。当時の芭蕉庵からは、遠く浅草の観音様と遠近一面雲と見まがうばかりの桜が咲き連なる様子が眺められ、「観音の甍みやりつ花の雲」と、詠っています。

今では、ビルばかりの景色ですが、春になると河岸には滝廉太郎の「花」の歌のような桜並木や、東京スカイツリーの姿が目を楽しませてくれます。春のうららかな日を思うと、なぜか足取りが軽くなってきます。

   梅                                                      芭蕉記念公園

         桜芭蕉記念公園芭蕉稲荷                              芭蕉稲荷

 

「みちくさ」江戸歳時記

深川に仕事場を移って、2年になります。今までは、日本橋という江戸時代の中心地の呉服橋近くに勤務し、仕事の合間を見ては歴史探索を楽しみ、当時の思いに耽っていました。

深川では、内勤となったため、昼休みのウォーキングを日課としています。ところが、深川には江戸の時代の足跡がいたるところに遺されており、ウォーキングが「みちくさ」ばかりになっています。今回は、その中でも毎日歩いている「仙台掘川」を紹介したいと思います。

仙台堀川は、17世紀前半の寛永年間に深川猟師町開発で開削された運河で、隅田川からの入り口付近の北岸に仙台侯松平陸奥守の蔵屋敷があったことから、「仙台」の名がついたといわれています。この川は、江戸時代から米(宮城米)を中心とした食糧および木材等の運搬に利用され、隅田川、小名木川とともに、水運の要として機能してきました。そして、清澄公園近くの海辺橋のたもとには、松尾芭蕉が元禄2年(1689年)、「奥の細道」の旅の出発点としたとされる「採荼庵(さいとあん)」跡が残されています。季節は違いますが、秋めく青空のきぬ雲を仰ぎ見ますと、「草の戸も 住み代わる世ぞ 雛の家」(戸口が草で覆われたこのみすぼらしい深川の宿も、私にかわって新しい住人が住み、綺麗な雛人形が飾られるようなはなやかな家になるのだろう)の一俳句を思い出します。「仙台掘川」に沿って「仙台堀川公園」が続いています。「仙台掘川公園」は、四季の花薫る都内最大級の親水公園です。春には全長900mの桜並木、ソメイヨシノ、カンヒザクラ350本が満開となり、川と桜のコラボレーションが楽しませてくれます。

残暑の厳しい日が続いていますが、歩いていると川面を吹く風からは、秋の気配が感じられます。不思議な光景ですが、赤いサルビアの花の横で小さな萩の紫の花が咲き始まっています。川辺では、ボラやハゼが群がり、たたった2羽ですが、ウミウのつがいが潜り漁にいそしんでいます。暑さを忘れさせるのどかな光景にこころ和ませながら、昔の廻船の賑わいを思い浮かべて歩くことも楽しいものです。

今「仙台掘川」は、季節が夏から秋に変わろうとしています。深川の小さな江戸の名残を楽しむため、散歩やウォーキングを楽しむ人達の姿が増えつつある今日この頃です。

写真1「採荼庵(さいとあん)」跡                  写真2「仙台掘川」

深川1深川2

 

 

 

「春蘭」の思い出

毎年3月になると、思い出すことがあります。冬の雨が春の雨へと変わる季節に、故郷の雑木林中で「春蘭」の花に出会ったことです。3月の雨がモノトーン景色を薄絹で包むように春の色合へと換え、下野(しもつけ)の山野へと誘なってくれた当時を、懐かしく思い出させてくれます。

冬枯れの雑木林の中に、春を探し回っていたとき、偶然に出会いました。雨にぬれた笹の葉を気にしていたところ、ふと目の端に、ならの古木の根元でひっそりと咲いている、小さな花が目に入ったのです。白い花弁に薄紅を刷いた春蘭の花でした。

その瞬間、頭の中に浮かんだのは、万葉集の古歌でした。

「下野の 三毳(みかも)の山の 小楢のす まぐはし児ろは 誰が笥か持たむ」(東歌14巻)

小学生の頃、この歌の意味は、〔下野の三毳山のコナラの木のようにかわいらしい娘は、だれのお椀を持つのだろうか(誰のお嫁さんになるのだろうか)〕と教えられたことを覚えています。

下野風土記によると、三森山のそばに都と蝦夷地を結んだ東山道(とうさんどう)が通っており、駅が置かれていたといわれています。きっとこの東歌は、蝦夷地から遠く九州へと赴いた防人達の一人が、故郷の残してきた恋人を思い詠んだ歌なのでしょう。この古歌と春蘭の花が重なって、故郷の春の訪れを今も思い出させてくれるのです。

春蘭の花は、歌われているように質素で可憐な花ですが、何か少年の心を引くものがありました。そのとき咲いていたのは一輪でしたので、周りを探してみました。見つかったのは花のない緑の株ばかりでした。後に,カタツムリが春欄の花を好物にしているということを知りました。美味しいデザートだったのでしょう。

最近、故郷の帰ったとき、思い出の場所に行ってみました。今その場所は、県の「みかも山公園」として整備されています。昔の風景は残っていませんが、いろいろな花々が温室を飾っていました。また、自然保護園として「カタクリの里」設けられ、3月中旬頃から、春蘭の花のかわりに野生のカタクリの花の群生を楽しむことができます。

しかし、万葉の故郷を思い出すには、紫の気品のあるカタクリの花より、愛らしい春欄が似合っているような気がします。

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経営承継事業部は、円滑な経営承継を実現するための、コンサルティング・セミナー・執筆研究を実践する経営コンサルタントのグループです。
経営承継、円滑な経営承継を実現するための経営革新、後継者に選ばれる企業にするための企業再生などの一体的商品開発により、クライアント満足を優先させることを基本方針として貫いています。

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