経営承継事業部

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カテゴリー:休憩室

スポーツにおけるエリート教育

僕自身は野球に興味があり小学校のころ、少年野球に通いました。

野球というスポーツそのものに興味を持ったのは小学校4年生のころであり、始めたのは5年生の頃です。

中学校に入り部活動として今度は卓球を始めました。

勿論、卓球というスポーツを知ったのもその時です。

3年間部活を続け、市の大会では優勝する事が出来ましたが、それ以降は30年位、卓球をしませんでした。

最近またやり始めて変わったと思ったのは、卓球に限らずですが、小学校の低学年もしくはそれ以下で始めている子が多い事です。

聞きました所、どのスポーツでも小学校の頃から全国レベルでないと、その道で一流にはなれないそうです。

遅く始めて、その道で一流になれるのは、本当にごく稀なそうです。

何事も一流になれる人は僅かではありますが、その条件として小さい頃からやっていないとならないのです。

部活やスポーツは最早学校教育の一環としてのものではなくなったのだと思います。

本当に一流になるには、本人の問題もありますが、環境を整える親の責任だという事です。

これが、教育費がかさみ、更に言えば比較的裕福な人しかスポーツで生計を立てていくのが難しくなったとも言えます。

卓球でいえば平野美宇ちゃんや伊藤美誠ちゃんは高校生で日本一に張本くんに関しては中学生で日本一になっています。

スポーツでないにしても、将棋の藤井くんも同様です。

親や学校等の教育機関は、良いか悪いかは別として現実を見ていく必要があります。

 

私といえば、これを何十年ぶりにやった卓球で、中学生に勝てない言い訳にしております。

古武道の世界

 昭和48年ごろだったと思います。新聞の文化欄に、室町時代から伝わる天真正伝香取神道流という武道が紹介されていました。それは、現代の武道とは違って、刀や槍・薙刀・棒・柔術手裏剣など、いわゆる武芸十八般すべてを習う武道でした。戦国時代の合戦では、敵はどんな武器を持ってくるかわかりません。ですから、どんな武器にも対応できなければならないのです。当然といえば当然です。これが江戸時代になると、剣術が主体に変わってゆきます。とは言え、鑓や弓もそれなりに修練されていました。
 武道は古くは弓馬鎗剣と呼ばれており、弓術が最も各の高い武道であり、これに次ぐのが馬術そして鎗術と続き、剣術は4番目の格下の武術と考えられていたようです。

 こういった古い武道は古武道と呼ばれています。多い時代には数千もあったといわれる流派のうち100流程度が現在も伝えられています。毎年2月には日本武道館で古武道大会が開かれ、また11月3日の文化の日には明治神宮でも古武道大会が開かれており、一般公開されています。以前は私は毎年見に行っていたのですが、ここ数年は仕事が忙しくて、見に行く暇がありません。今年も見に行きたかったのですが、気が付いたら終わっていました。文化の日には明治神宮に行きたいですね。

 私は縁があって天真正伝香取神道流に入門しました。この流派は先にも書いたように武芸十八般なんでもやる流派ですが、最初に習うのは「表の太刀」という名前の刀同士で戦う形です。ところがこれが、複雑で難しいのです。

敵が面に切りつけてくるので、右側に避けて敵の同を切る。
すると敵はこれを下がって避けて、こちらの左に回りこんで胴に切り込んでくる。
それをこちらも下がって避けながら敵の小手を切り、さらにわき腹を切り上げる。
すると敵はこれを下がって避け横からこちらの小手に切りつけてくる。
それを下がって避けると敵はすかさずこちらに踏み込んで面を打ってくるので、左にかわして敵の面を打つ。

 こんな動作が十以上も続けて連続技にしたものが1つの形になっています。長くて複雑なので、初めて習うと半日練習していても覚え切れません。いや、実を言うと覚えたのです。はじめのうちは先生や先輩たちに「はい。そこで右。」とか「左へ一歩でて小手」とか声をかけてもらいながら体を動かします。そして、習ったその日のうちに、一度も間違わずに、一度も声をかけてもらわずにできるようになったのです。そして家へ帰って復習をしようとしたら、さっきまでできていたのがまったく思い出せないのです。ショックでした。

 翌週の稽古日に道場へ行き、先輩たちの稽古を見ているうちにだんだんと思い出してきます。
すぐに、声かけなしでも間違わなくなります。まだまだぎこちないながらも、なんとなく動けるようになってきました。そして一日の稽古が終わり、家へ買って復習してみると、ちゃんと動きが思い出せます。ちょっとうれしかったです。

 表之太刀と呼ばれる形は、このような長い形が4つあります。最初に習う「五津之太刀」という名前の形が一番短いのですが、それでも覚えるのが大変でした。入門して1ヵ月半ぐらいして、2番目の「七津之太刀」を習いました。その後順次形を教わり、半年ぐらいかけて表之太刀の4つの形を教わりました。あとはひたすら反復練習です。同じ動作を何度も何度も、何ヶ月も何年も繰り返してゆくうちに、一つ一つの動きの意味がわかってきました。手の動き、足の踏む位置や角度などのすべてに意味があるのです。なぜそうするのか、なぜそうでなければならないのか。これがわかってくると単純な反復練習が、謎解きのようで面白くなってきます。
 この後さらに、棒術や薙刀術、居合いや鑓などを習うのですが、それはまた次の機会にお話しようかと思います。

遠山の霜月祭り

12月3日・4日、昨年に続いて友人の誘いに乗ってお神楽見学ツアーで、長野県飯田市遠山郷に行ってきました。集合した四日市から、車で東名阪自動車道路・伊勢湾岸自動車道路・東名自動車道路を進み、一般道で今年の大河ドラマの舞台「井伊谷」で休憩をとりました。

気賀の町は、散策をするグループで混雑していました。龍潭寺は大型観光バスが多数停まっており、見学コースは人で溢れていました。幸い建物を外すと静かな禅寺と紅葉を味わえました。近くの宝林寺は参詣客も少なく、黄檗宗独特の伽藍、仏像を楽しめました。

徳川信康悲劇の城「二俣城」から天竜川の谷に入り、秋葉神社を横目にフォッサマグナの通る秋葉街道に入り浜松市水窪(みさくぼ)を通過します。この部分は、JR飯田線も通っており大きな集落が広がっています。林業を中心とした経済圏の懐深さを感じました。

国道152号線はこの先青崩峠で地滑りで車道の建設が出来ず、自動車通行止めとなっており、武田信玄が遠州攻めに使ったヒョー越峠に迂回します。この峠では、毎年静岡県側と長野県側で綱引きで境界を決める綱引きが行われています。現在は、長野県側が出っ張っています。

峠越え後は、細い道を急降下します。遠山郷では旧暦霜月(11月)に10の神社で開催される湯立て神楽の祭りです。今回は、飯田市南信濃木沢の小道木集落の熊野神社のお祭りで、かつては祭日は12月14日でしたが、昭和63年から12月第一日曜日に改められました。各地区で12月に開催されます。

午後3時に到着した時にはすでに祭りは始まっていましたが、メインの湯立てとお神楽は夜中なので、標高1000mの下栗の里に登りました。尾根に現れた天空の山里からは、雪をかぶった南アルプス聖岳などが手に取るように見えます。畑は急斜面で水田はなく、かつては焼き畑で作物を作っていたようです。

日向でシイタケを干していた御婆さんに聞いたところ、かつては養蚕で桑の木を植えていたとの話でした。日常の生活物資は、行商の車が上がってくるため、集落の人は街に降りていくことも不要とのことでした。今夜の宿の和田に降り、温泉に入りシシナベを中心とした女将手作りに舌鼓を打ちました。

熊野神社は、昼間と変わって、境内には焚火が、笛と太鼓がなっています。ご帳場にご祝儀を奉納、熊野神社のお札をいただきました。若者が入れ替わりお神楽を舞っています。途中で、中学生が授業で覚えた舞は、一人ひとり楽しんでいました。

お神酒と煮物が振舞われ、室内でかまどは薪が炎を上げているとはいえ、風が吹き込んで寒さは幾分癒されます。村民に交じって、外部の我々にも湯木が配られ、湯立てに参加します。その後、お面をつけた舞手が現れ、提灯に導かれて回ります。

今年は10時には終わりたいと言っていましたが、祭りは際限なく続きます。翌日が月曜日であり、地元の祭りの雰囲気が強い祭りでした。宿の温泉は1時までしか使えないとのことで、途中で断念して帰りました。月夜ながら星も多く輝く夜道を帰りました。

翌日は、佐久間ダムを見学して帰ろうとしましたが、通行止めのため、山道を天龍村・売木村から遠州街道に出、鳳来寺をお参りしました。東海道の松並木・岡崎城の八丁味噌蔵を見学して帰途につきました。翌週には雪も舞ったとか。地元だけで運営できるお祭りが引き継がれることが望まれます。


 

 

 

氷川神社明治天皇御祭150年祭

氷川神社150

今年は、明治天皇が東京に遷都し150周年にあたります。大宮氷川神社は、その時から武蔵の国の鎮守勅祭の社と定められました。

明示天皇は慶応4年(西暦1868年8月)に第122代天皇として即位、10月13日に江戸城に入城、同月28日には大宮氷川神社にて自ら氷川神社の御神前で御親祭を執り行いました。氷川神社の社報では、桓武天皇が京都にされた際、山城の国の鎮守であった加茂神社を篤く信仰されたことに倣ったもので、毎年御親祭が続いています。

町内会の会員には、お祭りのお誘いが届きます。今年は150年の記念の年ということで、奉祝祭が行われています。

平成天皇で4代目、皇太子さまは5代目となりますが、どのような時代が開けるのでしょうか。

「みちくさ」江戸歳時記9

平成29年睦月、例年になく年明けから寒い日が続いています。今日も北風が吹いていますが、陽ざしは強く、川筋の梅の木は満開です。年の初めですので、いつもの散歩ではなく、近代日本の夜明けを楽しみながら歩きましょうか。

まずは、渋沢栄一旧宅です。渋沢栄一は、1876年に深川区福住町(永代2)の屋敷を購入し、本邸、その後別邸として利用しました。渋沢栄一と江東区との関係は深く、深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業に着目し、1897年に当地に渋沢倉庫部として創業したのが現澁澤倉庫㈱です。旧宅跡地は猫の額ほどですが、澁澤倉庫㈱の敷地に遺され、今日もサラリーマンのランチスペースになっています。

次は、渋沢栄一旧宅の隣にある、幕末の佐久間象山が西洋砲術塾を開いた松代藩下屋敷があった場所です。佐久間象山は、清国で勃発したアヘン戦争に衝撃を受け、海防の必要性を痛感し、江川太郎左衛門(英龍)に西洋砲術を学びました。1850年当地深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、門下には、勝海舟・吉田松陰・阪本龍馬など多彩な人物がいました。わずかな敷地跡眺ですが、大砲の轟と国を憂い奮闘する若者たちの姿が目に浮かびます。

5分程歩くと、渋沢栄一が設立に関わった会社の一つ、旧浅野セメント㈱の跡地があります。現在は太平洋セメント㈱の子会社アサノコンクリート㈱のコンクリート工場として、何台ものミキサー車が行きかっています。当地は、日本で初めてのセメントエ場でした。セメントは、幕末から明治時代にかけてわずかながら輸入されましたが,高価なため国産化が望まれ、政府が官営深川セメント製造所として事業を始めました。1875年工部省の宇都宮二郎が本格的なセメントの製造に成功しました。近所の隅田川や仙台堀川などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、輸入品と遜色のない国産のセメントを作り上げたといわれています。官工場の民間払い下げに伴い、1883年浅野総一郎に払い下げられ、浅野セメント㈱として製造を始めました。その後、日本セメント㈱を経て、現太平洋セメント㈱に引継がれ現在に至っています。現在この跡地には「本邦セメントエ業発祥之地」の記念碑がおかれ,当時のフレットミルのロールも保存されています。いまではロールの音に代ってコンクリートタワーの音が響いています。

近所には、「江戸歳時記」みちくさ第7回で取り上げた清澄庭園があります。この庭園は、江戸時代の中期には、豪商紀伊國屋文左衛門の屋敷があつたと伝えられています。明治に入ると、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取って庭園の造成を行い、社長を継いだ岩崎弥之助が手を加えて、現在の庭園の形が完成しました。同庭園は、激動の幕末から維新かけ所有者が転々と変わり、日本の近代郵便制度の創設者である前島密もその一人でした。

いつもの散歩道ですが、今日のように、幕末から明治維新にかけての時代を想像しながら道草しながら歩くのも楽しく、新たな発見がありました。寒空では、隅田川の群れからはぐれたカモメが舞っています。寒い日が続きますが、また新しい出会いを求め歩きたいと思います。

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