経営承継事業部

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カテゴリー:休憩室

「みちくさ」江戸歳時記9

平成29年睦月、例年になく年明けから寒い日が続いています。今日も北風が吹いていますが、陽ざしは強く、川筋の梅の木は満開です。年の初めですので、いつもの散歩ではなく、近代日本の夜明けを楽しみながら歩きましょうか。

まずは、渋沢栄一旧宅です。渋沢栄一は、1876年に深川区福住町(永代2)の屋敷を購入し、本邸、その後別邸として利用しました。渋沢栄一と江東区との関係は深く、深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業に着目し、1897年に当地に渋沢倉庫部として創業したのが現澁澤倉庫㈱です。旧宅跡地は猫の額ほどですが、澁澤倉庫㈱の敷地に遺され、今日もサラリーマンのランチスペースになっています。

次は、渋沢栄一旧宅の隣にある、幕末の佐久間象山が西洋砲術塾を開いた松代藩下屋敷があった場所です。佐久間象山は、清国で勃発したアヘン戦争に衝撃を受け、海防の必要性を痛感し、江川太郎左衛門(英龍)に西洋砲術を学びました。1850年当地深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、門下には、勝海舟・吉田松陰・阪本龍馬など多彩な人物がいました。わずかな敷地跡眺ですが、大砲の轟と国を憂い奮闘する若者たちの姿が目に浮かびます。

5分程歩くと、渋沢栄一が設立に関わった会社の一つ、旧浅野セメント㈱の跡地があります。現在は太平洋セメント㈱の子会社アサノコンクリート㈱のコンクリート工場として、何台ものミキサー車が行きかっています。当地は、日本で初めてのセメントエ場でした。セメントは、幕末から明治時代にかけてわずかながら輸入されましたが,高価なため国産化が望まれ、政府が官営深川セメント製造所として事業を始めました。1875年工部省の宇都宮二郎が本格的なセメントの製造に成功しました。近所の隅田川や仙台堀川などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、輸入品と遜色のない国産のセメントを作り上げたといわれています。官工場の民間払い下げに伴い、1883年浅野総一郎に払い下げられ、浅野セメント㈱として製造を始めました。その後、日本セメント㈱を経て、現太平洋セメント㈱に引継がれ現在に至っています。現在この跡地には「本邦セメントエ業発祥之地」の記念碑がおかれ,当時のフレットミルのロールも保存されています。いまではロールの音に代ってコンクリートタワーの音が響いています。

近所には、「江戸歳時記」みちくさ第7回で取り上げた清澄庭園があります。この庭園は、江戸時代の中期には、豪商紀伊國屋文左衛門の屋敷があつたと伝えられています。明治に入ると、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取って庭園の造成を行い、社長を継いだ岩崎弥之助が手を加えて、現在の庭園の形が完成しました。同庭園は、激動の幕末から維新かけ所有者が転々と変わり、日本の近代郵便制度の創設者である前島密もその一人でした。

いつもの散歩道ですが、今日のように、幕末から明治維新にかけての時代を想像しながら道草しながら歩くのも楽しく、新たな発見がありました。寒空では、隅田川の群れからはぐれたカモメが舞っています。寒い日が続きますが、また新しい出会いを求め歩きたいと思います。

奥三河の奇祭「御園の花祭」

11月12日・13日、友人の誘いに乗って、愛知県北設楽郡東栄町御園に行ってきました。集合した四日市から、車で東名阪自動車道路・伊勢湾岸自動車道路・新東名自動車道路を進み、一般道で徳川家の発祥の地「松平郷」で休憩をとりました。

3百年の太平の世を培った松平郷は、低い山が連なり水田は乏しい山里です。地図で見ると、山の上にはトヨタ関連企業の従業員向けのニュータウンが広がっていますが、国道沿いには、平らな土地はほとんどありません。山里の生活は豊かですが、忍耐力と共同意識を培ったようです。

そこから、くねくね曲がる谷底の道を進み、最後に山を越えた先に目的地の御園の集落はあります。峠を越えると見渡すばかり山また山です。一息ついて先に進みます。地区の公共施設跡や廃校を改造した建物が見えてきます。すぐの谷底まで住宅が散在しています。駐車場に車を置き、会場に進みます。

会場の廃校にかつては、谷底から30分から1時間は歩いて通学したそうです。既に祭りは始まっていました。山並みを見下ろす広場に作られた、熊野神社の拝殿にお参りし、友人の家の庭で実ったみかんを添えてご祝儀を奉納、お神酒と夕食を振る舞われました。

午後二時から始まった神寄せの神事に続き、各種の舞が奉納され、最後は24時間後に神様には帰っていただく(演目は次第によれば31にもなる)。国指定の重要無形民俗文化財で、郡内15箇所で数カ月に亘って開催される。衣装や踊りは室町時代のまま残っているそうです。一つの演目で、扇の手と棒塚と剣の3種の道具を使い踊ります。演目のの間には鬼やしゃもじなどの神様も出てきます。

笛と太鼓と歌くらにあわせ舞われる踊りは、一番30分程度のものが延々と続く。夜も遅くなると人も少なくなり、我々も仮眠室で小休止。外が騒がしくなったので出て見ると、メインの花の舞が始まっていました。今まで男の踊り手ばかりでしたが、神事祈願も含め、少女の舞もある華やかなものでした。関係者家族・親族の観客が多いようです。

テーホへ・テホへという掛け声と、単調ながらそれぞれ趣向を凝らした舞に、時間を忘れていると、外は白みはじめ、雲海の向こうの山並みが美しい。太陽が上って陽の光が会場に入る頃、湯ばやしで中心の鍋のお湯が撒かれる。帰りも半日かかるので、最後まで見届けられず会場を後にしました。

帰りは飯田線の走る天竜川の谷まで延々と降りていく、こんな山奥が故に貴重なお祭りが昔のまま残ったようだ。海の国とは別の意味で豊かな文化が育まれたようだ。友人の話では、山の尾根道の交流が、熊野信仰・秋葉信仰として残ったという。いい経験をさせていただきました。

ちなみに、隣で見学していた八王子の女性は、朝一番の中央線・新幹線・飯田線・町民バス・タクシーを乗り継いで、夕方五時にたどり着いたという。観光化されない行事ではあるが、人口減少・高齢化の影響で、演者は地元だけでは集まらず、東京の保存会の協力も受けているそうです。

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九十九里に遊ぶ

海なし県の埼玉に住んでいると、やたらと海が恋しくなる。子供が小さい頃は、勤務先の契約ホテルを利用して、房総半島から九十九里海岸まで、よくドライブをしたものである。今と異なり、高速道路はなく一般道をのんびりとというより、イライラしながらハンドルを握っていた、

最近は家族旅行ではなく、テニス合宿で年に1~2回訪れている。テニス合宿というとカッコ良いが、実態は昔からのテニス仲間との飲み会に年々近づいている。以前はテニスコートを取り合っていたが、年と共に謙虚さが増し譲り合いが多くなってきた。角が取れて円熟さが増したと言いたいところだが、口には出さないが体力の衰えがその原因である。

テニス合宿を始めてから40年が経過して、お互いに譲り合いの精神に磨きをかけている。初日のテニスは正午に集合して夕刻まで、二日目は午前9時から正午までの、正味1日のテニス合宿である。宿はお気に入りの国民宿舎であるサンライズ九十九里に連年投宿している。

正味1日のテニス予定であるが、最近の好みは砂浜散歩である。九十九里の浜辺は、遠浅の砂浜である。靴を脱いで、波打ち際を裸足で2時間くらい無心で歩く。秋の浜辺に人は少なく、沖合に波乗りを楽しむ人たちがちらほら見えるだけである。

車の騒音はなく人声もなく、潮騒だけの静寂の世界である。「古池や蛙飛び込む水の音」ではないが、潮騒がかえって静寂の世界を作り出している。日々の仕事の疲れを癒す楽しいひと時である。

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ピラカンサスと秋の野鳥たち

ヒヨドリ                                                                                                ツグミ

ひよどり            つぐみ

  メジロ                                          オナガ


めじろオナガ

 

 6月まで発生しなかった台風は、7月以降、毎月5個以上発生していましたが、10月になって、朝晩の気温も下がり、北からの紅葉の便りも届き始めるようになり、過ごしやすい陽気になってきました。

庭に植わっているピラカンサスの実が真っ赤に熟すころになると、多くの野鳥が集まってきます。庭に来る主な野鳥は、頭の毛が逆立っているヒヨドリや、北の国から大群で渡ってくるツグミ、目の周りが白いメジロ、綺麗な水色のオナガなどです。

 ピラカンサスの実は10月から11月にかけて赤く色づきますが、鳥たちはまだ食べに来ません。実は、ピラカンサスの実には青酸系の毒(青酸配糖体)があるそうで野鳥たちはそれを知っているようです。さらにその毒は、実が熟す翌年の1,2月には消えて美味しくなり、野鳥たちはそれを待っているのです。

 ヒヨドリは、元々関東では、10月に渡来し、4月に北に渡る冬鳥でした。温暖化の影響かわかりませんが、留鳥として一年中棲むようになりましたが、今も秋には多くのヒヨドリが北海道から渡ってきます。

 ツグミは、10月ごろ、シベリアから大群で渡ってくる冬鳥です。日本へ着くと群れを解いて平地に生息し、3月になると再び群れて北へ帰ります。冬鳥なので日本ではさえずりをせず、口をつぐんでいるので、ツグミと呼ばれるようになったといわれています。

 メジロは、目のまわりの白いフチドリが特徴で、からだは、あざやかな黄緑色をしています。そのためウグイスと間違える人もいますが、ウグイスの羽色は緑よりも暗緑茶色で、いわゆるウグイス色ではありません。メジロは、10cmほどの小鳥のためピラカンサスの実をついばんでいると、あとから来たヒヨドリなどに追っ払われています。

 庭に数羽の群れで来ることが多いオナガは、全長30cm以上で、頭が黒く、ブルーグレーの翼と長い尾が特徴です。カラスの仲間なので学習能力は高く、スマートで綺麗な外見です。鳴き声は、「ギィーッ」と悪声ですが、これは警戒音声だそうです。オナガが群れで来ると、庭のピラカンサスの赤い実は1日でなくなってしまいます。

「みちくさ」江戸歳時記8

 9月「長月」、台風の上陸の多く、その影響を引きずったまま秋の長雨に入り、鬱陶しい日が続いています。9月末になって久々に晴れ間が現れ、やつと散歩に出ることができました。既に季節は秋となって、金木犀が香り、川縁を彼岸花が朱色に染めています。

東京で深川と言えば、江戸の風情や歴史への出会いを求めて、多くの人々が訪れています。今日は新たな発見をご紹介いたします。散歩コースの深川佐賀町には、気になるレトロな建物がいくつも残されています。よく調べると大正から昭和初期の建物なのです。

最初の建物は、永代橋から歩いて3分の所にある「村林ビル」です。会社の目の前にあり、年季の入った外壁のタイルと玄関のテラコッタが私を毎朝出迎えてくれます。「村林ビル」は、肥料などを扱う村林商店の自社ビルとして1928年(昭和3年)に建てられたものです。マンション街の中に突如として現れた、まったく場違いと言えるレトロな建物なのです。現在は劇団の練習場として使われ、テレビドラマなどのロケでよく使われています。設計者は、旧亀井喜一郎邸1921年(大正10年)や多摩聖蹟記念館1930年(昭和5年)などを設計した関根要太郎氏です。同氏の作品には、ドイツ表現派を始めとした、当時の最先端ザインが作風に多く取り入れられています。しかし、この「村林ビル」は、関根要太郎氏が新たな境地で設計した、玄関のテラコッタにユーゲントシュティルという様式を取り入れた貴重なロマネスク風作品です。特にロマネスクという古代様式を現代風にアレンジしたデザインが特徴です。

そのまま、3分程隅田川沿いに佐賀町河岸を歩くと、二つ目の建物「コスガビル」が現れます。1877年(明治10年)頃に深川佐賀町に米問屋として創業した小菅家が関東大震災の翌年の1924年(大正13年築)に建築したビルです。作者は分かりませんが、今はレトロなギャラリーとして親しまれています。いろいろイベントが催され、大正時代が蘇るようです。時代は変わつても「コスガビル」は、小菅家の暮らしとともにあり、このレトロな装いのまま現代を生き続けています。

さらに、高速道路に沿って富岡八幡宮に向かつて歩くと、三つ目の建物「深川東京モダン館」が迎えてくれます。「深川東京モダン館」は、1932年(昭和7年)に建築された東京市深川食堂を改修したものです。このような公営食堂の建設は、大正時代に諸物価が高騰したことで人々の暮らしが苦しくなったことで計画されました。ここでは、建物だけではなく深川の近現代史や食文化に関連した数々の展示やイベント、喫茶室でのおいしいコーヒーを楽しむことができます。

そろそろ時間が来たようです。深川は忘れ去られたレトロな建物が今なお使われ、静かに大正・昭和の昔を伝えています。神社仏閣、レトロな建物、マンション街、そして運河とさまざまな顔を持つ深川、次の出会いを楽しみに帰途に着きました。

   村林ビル                コスガビル               深川モダン館

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