経営承継事業部

歌枕と東山道

「田一枚植えて立ち去る柳かな 芭蕉」

今年に入ってから、栃木県大田原市に地域活性化からみの仕事で通っている。このあたりでは、田植えは5月の連休前後に実施している。地域資源の掘り起こしの仕事で各地を廻っている合間に、芭蕉の「奥の細道」の旧跡や西行・能因法師の歌枕の旅を追体験している。一番絵になる場所はと考えて、隣の那須町に所在する「遊行柳」と歌枕と東山道について書いてみようと調べて見た。

確かに、街道から田んぼの中のあぜ道を通って、温泉神社の麓にあるこんもりとした茂みに入ると、西行法師や芭蕉の歌碑や句碑が長年の風雪にさらされ、歴史ある旧跡と見てとれる。しかし、奥の細道に記載の内容はかなりの脚色がされているというのが通説となっている。もっと南の「朽木の柳」が旧跡とのこと。

「道のベに清水流るる柳かげ、しばしとてこそ立ちとまりつれ 西行」

謡曲の「遊行柳」は、かなり大胆な脚色がなされているが、柳は白河関から旧街道を入った古塚に生えていることになっている。西行はこちらで歌を詠んだとされている。同じ東山道でも、奥羽の方が都から見れば果ての地という感慨深いものとして創作したのだろう。

旧約聖書の世界は、今でも中東に具体的に存在する。日本の旧跡は、明快に場所が特定しているところもあるが、日本の旧跡は、天皇の陵(古墳)さえも、科学的に被埋葬者が定かでない場合が多い。ひとえに、多神教の日本と一神教の世界の主要な宗教史の差なのだろうか。

とはいっても、古い遺跡の発掘調査をすれば、現代の技術をもって、相当程度、遺跡の作られた年代に至るまで判明する。東山道をもう少し南西に戻ると、下野国の那須郡と塩谷郡の郡境が直線に伸びている場所がある。Google Map(航空写真版)を見ると、確かに現在のさくら市(塩谷郡)と那須烏山市(那須郡)の将軍道と呼ばれる市境が、東山道そのもので、各所で東山道の発掘調査が実施されている。

この遺跡の一部の発掘調査をした人の話を聞くと、東山道は砂礫で舗装された直線道路で、中央部が高くなだらかに傾斜のある路面で、両端に側溝が作られていたという。天平時代に都から7方向に作られた道路は、延喜式のとおりに造られていた。中央集権体制なればこそ可能だったと思う。

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