経営承継事業部

事業部トップ>コラム>休憩室>「みちくさ」江戸歳時記4

「みちくさ」江戸歳時記4

 

みちくさ「江戸歳時記」シリーズを書き始めてからちょうど1年になります。昨年は雪の中に咲く紅梅・白梅を取り上げましが、今年も梅の話題から始まりそうです。

鶯今日は暦の上では立春です。春の日差しに誘われて散歩に出ました。大寒波到来のニュースが嘘に感じられるほど穏やかな陽気から、今年も仙台掘り川沿いは梅の花が満開です。

満開の梅の小枝をふと見上げると、香りに包まれ緑に跳ねる鳥の姿が目に飛び込んできました。鶯です。なんと「梅に鶯」、ましては正岡子規の「鶯の身をさかさに初音かな」の姿そのものなのです。しかし残念なことに泣き声は「ホーホケキヨ」でなはく小さく「チチチチー」でした。気持ちは浮き立ち、歌舞伎の名せりふ「こいつは春から縁起がいいわい」と一声発し、節分のお参りにと深川八幡(富岡八幡神宮)へと足を向けました。

横綱お参りを済ませ境内を散策していると、最初に目に入るのが本堂右奥にある「横綱力士碑」です。明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立されました。この碑には初代明石志賀之助から第71代鶴竜関までの四股名が刻まれています。その大きさは高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンといわれ、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です。新横綱の誕生の際には、相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、鶴竜関も昨年の107日にその名を刻みました。また両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信、渋沢栄一等の当時の政財界の名士の名も刻まれ、各界とのつながりの深さ物語ってくれます。深川八幡が相撲との縁が深いのは、江戸勧進相撲発祥の地であるからなのです。江戸時代の相撲興業は京・大阪から始まりますが、当時は賭け事や勝敗を巡つてのトラブルが絶えないことから、禁令が出され一時中断しました。その後、深川地区の振興と火災で社殿を焼失していた深川八幡の復興を目的として春と秋の2場所の勧進相撲が許されました。その最初の地こそが深川八幡だったのです。以降約100年間にわたって本場所が境内で催され、1833(天保4)年以降は本所。回向院が勧進相撲の定場所となっていきました。私たちになじみの両国国技館が定場所として始められたのは、1909(明治42)年からのことです。

一方、当官の境内には、横綱顕彰碑だけではなく「大関力士碑」も大鳥居のすぐ脇にあり、隣には「巨人力士長身碑」や「巨人力士手形足形碑」があります。時代が移ろうとも、国技としての相撲とのつながりは延々と続いているようです。

また、この縁からなのでしょうか、清澄白川の横綱通り沿いには、大嶽部屋(大鵬)、北の湖部屋(北の湖)、綴山(寺尾)等の5つの相撲屋があり、散歩の最中にびんづけ油の香る若い力士によく出会います。

短い昼休みでしたが、今日もまた江戸の歴史を楽しみました。午後の仕事に頑張れそうです。

 

事業部紹介

経営承継事業部は、円滑な経営承継を実現するための、コンサルティング・セミナー・執筆研究を実践する経営コンサルタントのグループです。
経営承継、円滑な経営承継を実現するための経営革新、後継者に選ばれる企業にするための企業再生などの一体的商品開発により、クライアント満足を優先させることを基本方針として貫いています。

詳細はこちら >

執筆者

月別アーカイブ

このページの先頭へ