毎年3月になると、思い出すことがあります。冬の雨が春の雨へと変わる季節に、故郷の雑木林中で「春蘭」の花に出会ったことです。3月の雨がモノトーン景色を薄絹で包むように春の色合へと換え、下野(しもつけ)の山野へと誘なってくれた当時を、懐かしく思い出させてくれます。
冬枯れの雑木林の中に、春を探し回っていたとき、偶然に出会いました。雨にぬれた笹の葉を気にしていたところ、ふと目の端に、ならの古木の根元でひっそりと咲いている、小さな花が目に入ったのです。白い花弁に薄紅を刷いた春蘭の花でした。
その瞬間、頭の中に浮かんだのは、万葉集の古歌でした。
「下野の 三毳(みかも)の山の 小楢のす まぐはし児ろは 誰が笥か持たむ」(東歌14巻)
小学生の頃、この歌の意味は、〔下野の三毳山のコナラの木のようにかわいらしい娘は、だれのお椀を持つのだろうか(誰のお嫁さんになるのだろうか)〕と教えられたことを覚えています。
下野風土記によると、三森山のそばに都と蝦夷地を結んだ東山道(とうさんどう)が通っており、駅が置かれていたといわれています。きっとこの東歌は、蝦夷地から遠く九州へと赴いた防人達の一人が、故郷の残してきた恋人を思い詠んだ歌なのでしょう。この古歌と春蘭の花が重なって、故郷の春の訪れを今も思い出させてくれるのです。
春蘭の花は、歌われているように質素で可憐な花ですが、何か少年の心を引くものがありました。そのとき咲いていたのは一輪でしたので、周りを探してみました。見つかったのは花のない緑の株ばかりでした。後に,カタツムリが春欄の花を好物にしているということを知りました。美味しいデザートだったのでしょう。
最近、故郷の帰ったとき、思い出の場所に行ってみました。今その場所は、県の「みかも山公園」として整備されています。昔の風景は残っていませんが、いろいろな花々が温室を飾っていました。また、自然保護園として「カタクリの里」設けられ、3月中旬頃から、春蘭の花のかわりに野生のカタクリの花の群生を楽しむことができます。
しかし、万葉の故郷を思い出すには、紫の気品のあるカタクリの花より、愛らしい春欄が似合っているような気がします。