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執筆者:荒川 光一

「みちくさ」江戸歳時記7

弥生4月も終わりに近づいていますが、いつもの年よりも5月が遅く感じられます。コバルトブルーの抜けるような空にひきかえ、風は真冬のままで、日差しがありがたく感じられます。楽しみな昼休みの散歩開始です。仙台掘り川の桜並木は、今では黄緑のアーケードにすっかり変わっています。ふと見上げると、白いはなびらがしっかりと強い風をこらえてながら頑張っています。清澄公園のハナミズキです。

清澄公園は、江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。その後も江戸享保年間には、下総国関宿の藩主・久世大和守の下屋敷となり庭園としての形がつくられたようです。清澄公園の「清澄」のいわれは、深川開発で有名な深川八郎右衛門とともにこの地を開発した、清澄弥兵衛の名に馴染んでのことのようです。当初は弥兵衛町、そしてその後清住町となり、昭和に入って深川清澄町となりました。

この屋敷跡は、幕末の混乱期に徳川慶喜の所有となり、その後前島密を経て、明治11年に岩崎弥太郎の所有となりました。弥太郎は、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待するため「深川親睦園」として竣工させました。弥太郎の亡き後、夢は弟岩崎弥之助に引き継がれ、弥太郎が理想とした大名庭園を目標に、茶人磯谷宗庸を招き明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」として、明治24年に完成したのが「清澄庭園」です。

ここにはかつて日本近代建築の父と呼ばれ、鹿鳴館やニコライ堂を設計したコンドル設計による、鹿鳴館時代の建築の粋を集めた巨大な洋館や工匠柏木貨一郎による和館もありましが、惜しくも関東大震災で焼失しました。大震災後、岩崎家は大正13年に破損の少なかった東半分を公園用地として当時の東京市に寄付し(清澄公園)、昭和7年に清澄庭園として一般公開されました。
庭園内を散策すると、岩崎家が自慢の汽船を用いて全国の産地から集めた無数の名石が目に入ります。今では、そのうえで昼寝するカメが目を楽しませてくれます。また、庭園の奥には松尾芭蕉の「古池の句碑」があります。有名な「古池や蛙飛び込む水の音 」の句が描かれた碑です。もともとは昭和9年に隅田川のほとりの芭蕉庵跡に建てられたものでしたが、改修の際に、ここに移されたそうです。

清澄庭園をぐるりと回るとレトルな街並みに出会います。今では珍しい長屋形式の住居が建っています。清澄通りに沿いにあるその住居は通称、清澄長屋と呼ばれ、80年以上も前に建てられたアパートです。そのアパートは数年前に再開発され、今は豪華なファッション・ビルに変身しています。ここ数年、清澄長屋に数々の洒落た店がオープンしています。80年の古い雰囲気とアールデコ調の外観に憧れた人たちが集まるモダンな店やギャラリーが増えています。

至福の時間は簡単に過ぎてしまいます。後ろ髪を引かれる思いですが、ひとまず楽しみは後にのこして帰ることにしました。
 清澄庭園                                       旧洋館(清澄庭園ガイド倶楽部HPより)

1      清澄庭園(亀)          32

 

 

 

「これで再成長!新事業進出・虎の巻」3月号のご案内

今、経営承継研究部会のメンバーで、月刊誌「税理」((株)ぎょうせい、日本税理士会監修)「これで再成長!新事業進出・虎の巻」を執筆しています。
最新は4月号が出ており、最新の内容はサイトで紹介はできませんが、前月のものを紹介する企画にしました。
「税理」は、3万部の発行で、毎月20日に発売されます。税理士さん向け ではありますが、一般の方にもわかりやすいように書いています。
今回は、「これで再成長!新事業進出・虎の巻」、ープラス志向の出口戦略ー(第3回)「成功要因はリーダーシップ」です。

<内容要旨>
1.新事業進出に成功する経営者
2.新事業進出は経営者の重要な使命
3.変革型リーダーシップの必要性
4.新事業進出とリーダーシップ

詳細は以下をクリックしてみてください。
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「これで成功!健全廃業・虎の巻」11月号のご案内

今、経営承継研究部会のメンバーで、月刊誌「税理」((株)ぎょうせい、日本税理士会監修)「これで成功!健全廃業・虎の巻」を執筆しています。
最新は12月号が出ており、最新の内容はサイトで紹介はできませんが、前月のものを紹介する企画にしました。
「税理」は、3万部の発行で、毎月20日に発売されます。税理士さん向け ではありますが、一般の方にもわかりやすいように書いています。
今回は、「これで成功!健全廃業・虎の巻」、第3章・廃業を決断した後の廃業プロセスで、(第11回)「取引先・従業員等の関係者への対策」です。

<内容要旨>
1.関係者への告知
2.関係者への対応策

詳細は以下をクリックしてみてください。

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「みちくさ」江戸歳時記6

神無月、台風による長雨の9月も終わり、今日は日差しがとても優しく感じられ、最高の散歩日よりです。足の向くまま、気の向くままがモットーの我が散歩です。佐賀町河岸を隅田川に沿って上っていくと、芭蕉の銅像(芭蕉庵史跡展望公園)が目に入ってきます。小名木川の河口です。今日の目的は、この河国の傍らにかかっている橋、「万年橋」です。

「万年橋」は、江東区内の橋のなかでも古く架けられた橋の一つと言われています。架橋された年代は明らかではありませんが、 1671年の江戸図には、万年橋が載っています。また、 1680年の江戸図には「元番所橋」として記されています。元番所(川船番所)は万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して利根川水系から江戸に上る人と物を検査する川の関所でした。そこで、小名木川に架けられた橋は、船の通行を妨げないように高く架けられていました。そのため、橋の形は虹の形をした優美な橋であり、橋上からの富士の眺めも素晴らしいかったため、安藤広重は「名所江戸橋百景」に『深川万年橋』(写真1)として取り上げ、また、葛飾北斎も「富嶽三十六景」に『深川万年橋下』(写真2)として錦絵を描きました。

「万年橋」は、橋の美しさだけではなく江戸庶民の生活にも溶け込んでいました。広重の描いた『深川万年橋』は、橋桁に吊るされた放し亀(ニホンイシガメ)を大胆に描いたものです。これは、放生会に亀を放す「放生会(ほうじようえ)」の習慣を描いたものです。放生会とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教的な慣習といわれています。江戸時代には寺社の行事に取り入れられたことから、支配階級の慣わしから庶民の生活ヘと広まっていったようです。

しかし、「万年橋」の人気は江戸時代ばかりでありません。昭和の世になっても深川「万年橋」は小説家達を魅了して止みません。永井荷風の「深川の散歩」、池波正太郎の「鬼平犯科帳」の『剣客』『蛇苺』『引き込み女』などに登場します。江戸時代の橋は、人が集まり、出会い、分かれる場所でした。人生の出発駅、終着駅、心の目印として物語には橋は欠かせません。

藤沢周平の短編集「橋ものがたり」の中に『約束』という小説があります。主人公の幸助は鋳(カザリ)職人、幼馴染みのお蝶は酌とり女です。貧しい二人の葛藤の中での「万年橋」の上での出会いの話です。幸助とお蝶との五年ぶりの万年橋での再会を物悲しく描いています。「万年橋」の魅力は時代が代われども変わらないようです。

現在の「万年橋」は、1930(昭和5)11月に架け替えられた鉄骨作りの橋です。全長56.25m、幅員17.2mのアーチ型の橋です。当時の木造の橋と比べて物足りなさを感じますが、その趣は深川「万年橋」として時の流れを感じさせてくれます。今では、富士山は見えませんが、橋の上からは、隅田川に架かる最も美しい橋といわれる清洲橋(ケルン市に架けられたライン川の吊り橋をモデルにしています)の眺めが散歩の一時を楽しませてくれます。隅田川の川風には秋の気配が感じられ、カモメ達の鳴き声も軽く今日の散歩を楽しませてくれます。隅田川では抜けるような青空の下、スカイツリーを背に遊覧船が行きかっています。これがまた新しい「万年橋」の眺めなのでしょう。

           写真1 出典:日本郵政   写真2 出典:日本郵政       万年橋 現在(筆者撮影)                      

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「みちくさ」江戸歳時記5

水無月、梅雨の季節にもかかわらず晴れの日が続き、今日も深川の散歩を続けています。川沿いの梅の木は青い実をつけ、熟した丸い実を川面に散らしています。

丸いといえば、前回お話しました深川八幡宮(富岡八幡神宮)の境内奥の丸い大きな石の記念碑を思い出します。「カ持碑」と「力石(ちからいし)」です。深川では同じような丸い石を、散策する道筋にある神社や寺院でよく見かけます。調べてみると、これらはみな「力石」のようです。

「力石」はここ深川だけではなく全国にあるようです。「力石」とは、力較べに用いられる大きな石のことをいいます。力石の起源は石占いの一種で、かつてはこれを担ぎ上げることで、その年の豊凶を占つたといわれています。

隅田川沿いの日本橋や深川佐賀町界隈の神社仏閣には、たくさんの「力石」が奉納されています。江戸時代海上運送の起点として繁栄をたどる隅田川両岸には、大名の藩米を扱っていた浅草蔵前の札差の穀倉が川沿いに立ち並び、その荷役人夫たちが、娯楽のひとつとして力自慢を競っていたのではないでしょうか。これが19世紀には、祭りと喧嘩の好きな江戸っ子の気質に合い、寺社の祭りの催し物として盛んに行なわれるようになったともの思われます。

天保四年(1833)六月には深川八幡で、当時の将軍家ご上覧による一大興業が行なわれたそうです。「力石」は、幕府が人と人のぶつかり合いの相撲を禁止していたその間も、江戸庶民の楽しみとしてす社寺の祭礼の度に続けられ、江戸っ子の人気を博していたのでしょう。大相撲の始まった深川八幡に「力持碑」として記念碑があるのが分かるような気がします。

力自慢たちの心意気が遺された「力石」は、散歩道のスタートの豪商紀国屋文左衛門がお祀りしたといわれる「紀文稲荷神社」に始まり、成田山の別院の「深川不動尊」、江戸、明治と米問屋肥料問屋が軒を並べ商売繁盛を祈った「佐賀稲荷神社」と、訪れるたびに楽しませてくれます。「力石」には、力自慢の人達が差し上げることの出来た大石に、自分の名を刻み記念としたものや、思い人への歌や絵、店の宣伝などを刻んだものと色々なものが奉納されており、退屈させません。

現在「力石」は、木場の角乗りとともに、東京都指定無形民俗文化財(民俗芸能)「深川の力持ち」としてその伝統が受け継がれて、毎年10月の大東京祭で公開されております。

夏祭りを前にした深川八幡の境内はひっそりとしており、雨にぬれた「力石」が、逆に江戸深川の賑わいを想像させてくれてい

  深川八幡           紀文稲荷             佐賀稲荷

深川八幡2  紀文稲荷力石2  佐賀稲荷2

    

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