経営承継事業部

カテゴリー:休憩室

遠山の霜月祭り

12月3日・4日、昨年に続いて友人の誘いに乗ってお神楽見学ツアーで、長野県飯田市遠山郷に行ってきました。集合した四日市から、車で東名阪自動車道路・伊勢湾岸自動車道路・東名自動車道路を進み、一般道で今年の大河ドラマの舞台「井伊谷」で休憩をとりました。

気賀の町は、散策をするグループで混雑していました。龍潭寺は大型観光バスが多数停まっており、見学コースは人で溢れていました。幸い建物を外すと静かな禅寺と紅葉を味わえました。近くの宝林寺は参詣客も少なく、黄檗宗独特の伽藍、仏像を楽しめました。

徳川信康悲劇の城「二俣城」から天竜川の谷に入り、秋葉神社を横目にフォッサマグナの通る秋葉街道に入り浜松市水窪(みさくぼ)を通過します。この部分は、JR飯田線も通っており大きな集落が広がっています。林業を中心とした経済圏の懐深さを感じました。

国道152号線はこの先青崩峠で地滑りで車道の建設が出来ず、自動車通行止めとなっており、武田信玄が遠州攻めに使ったヒョー越峠に迂回します。この峠では、毎年静岡県側と長野県側で綱引きで境界を決める綱引きが行われています。現在は、長野県側が出っ張っています。

峠越え後は、細い道を急降下します。遠山郷では旧暦霜月(11月)に10の神社で開催される湯立て神楽の祭りです。今回は、飯田市南信濃木沢の小道木集落の熊野神社のお祭りで、かつては祭日は12月14日でしたが、昭和63年から12月第一日曜日に改められました。各地区で12月に開催されます。

午後3時に到着した時にはすでに祭りは始まっていましたが、メインの湯立てとお神楽は夜中なので、標高1000mの下栗の里に登りました。尾根に現れた天空の山里からは、雪をかぶった南アルプス聖岳などが手に取るように見えます。畑は急斜面で水田はなく、かつては焼き畑で作物を作っていたようです。

日向でシイタケを干していた御婆さんに聞いたところ、かつては養蚕で桑の木を植えていたとの話でした。日常の生活物資は、行商の車が上がってくるため、集落の人は街に降りていくことも不要とのことでした。今夜の宿の和田に降り、温泉に入りシシナベを中心とした女将手作りに舌鼓を打ちました。

熊野神社は、昼間と変わって、境内には焚火が、笛と太鼓がなっています。ご帳場にご祝儀を奉納、熊野神社のお札をいただきました。若者が入れ替わりお神楽を舞っています。途中で、中学生が授業で覚えた舞は、一人ひとり楽しんでいました。

お神酒と煮物が振舞われ、室内でかまどは薪が炎を上げているとはいえ、風が吹き込んで寒さは幾分癒されます。村民に交じって、外部の我々にも湯木が配られ、湯立てに参加します。その後、お面をつけた舞手が現れ、提灯に導かれて回ります。

今年は10時には終わりたいと言っていましたが、祭りは際限なく続きます。翌日が月曜日であり、地元の祭りの雰囲気が強い祭りでした。宿の温泉は1時までしか使えないとのことで、途中で断念して帰りました。月夜ながら星も多く輝く夜道を帰りました。

翌日は、佐久間ダムを見学して帰ろうとしましたが、通行止めのため、山道を天龍村・売木村から遠州街道に出、鳳来寺をお参りしました。東海道の松並木・岡崎城の八丁味噌蔵を見学して帰途につきました。翌週には雪も舞ったとか。地元だけで運営できるお祭りが引き継がれることが望まれます。

 

 

 

氷川神社明治天皇御祭150年祭

氷川神社150

今年は、明治天皇が東京に遷都し150周年にあたります。大宮氷川神社は、その時から武蔵の国の鎮守勅祭の社と定められました。

明示天皇は慶応4年(西暦1868年8月)に第122代天皇として即位、10月13日に江戸城に入城、同月28日には大宮氷川神社にて自ら氷川神社の御神前で御親祭を執り行いました。氷川神社の社報では、桓武天皇が京都にされた際、山城の国の鎮守であった加茂神社を篤く信仰されたことに倣ったもので、毎年御親祭が続いています。

町内会の会員には、お祭りのお誘いが届きます。今年は150年の記念の年ということで、奉祝祭が行われています。

平成天皇で4代目、皇太子さまは5代目となりますが、どのような時代が開けるのでしょうか。

「みちくさ」江戸歳時記9

平成29年睦月、例年になく年明けから寒い日が続いています。今日も北風が吹いていますが、陽ざしは強く、川筋の梅の木は満開です。年の初めですので、いつもの散歩ではなく、近代日本の夜明けを楽しみながら歩きましょうか。

まずは、渋沢栄一旧宅です。渋沢栄一は、1876年に深川区福住町(永代2)の屋敷を購入し、本邸、その後別邸として利用しました。渋沢栄一と江東区との関係は深く、深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業に着目し、1897年に当地に渋沢倉庫部として創業したのが現澁澤倉庫㈱です。旧宅跡地は猫の額ほどですが、澁澤倉庫㈱の敷地に遺され、今日もサラリーマンのランチスペースになっています。

次は、渋沢栄一旧宅の隣にある、幕末の佐久間象山が西洋砲術塾を開いた松代藩下屋敷があった場所です。佐久間象山は、清国で勃発したアヘン戦争に衝撃を受け、海防の必要性を痛感し、江川太郎左衛門(英龍)に西洋砲術を学びました。1850年当地深川小松町(永代1)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、門下には、勝海舟・吉田松陰・阪本龍馬など多彩な人物がいました。わずかな敷地跡眺ですが、大砲の轟と国を憂い奮闘する若者たちの姿が目に浮かびます。

5分程歩くと、渋沢栄一が設立に関わった会社の一つ、旧浅野セメント㈱の跡地があります。現在は太平洋セメント㈱の子会社アサノコンクリート㈱のコンクリート工場として、何台ものミキサー車が行きかっています。当地は、日本で初めてのセメントエ場でした。セメントは、幕末から明治時代にかけてわずかながら輸入されましたが,高価なため国産化が望まれ、政府が官営深川セメント製造所として事業を始めました。1875年工部省の宇都宮二郎が本格的なセメントの製造に成功しました。近所の隅田川や仙台堀川などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、輸入品と遜色のない国産のセメントを作り上げたといわれています。官工場の民間払い下げに伴い、1883年浅野総一郎に払い下げられ、浅野セメント㈱として製造を始めました。その後、日本セメント㈱を経て、現太平洋セメント㈱に引継がれ現在に至っています。現在この跡地には「本邦セメントエ業発祥之地」の記念碑がおかれ,当時のフレットミルのロールも保存されています。いまではロールの音に代ってコンクリートタワーの音が響いています。

近所には、「江戸歳時記」みちくさ第7回で取り上げた清澄庭園があります。この庭園は、江戸時代の中期には、豪商紀伊國屋文左衛門の屋敷があつたと伝えられています。明治に入ると、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取って庭園の造成を行い、社長を継いだ岩崎弥之助が手を加えて、現在の庭園の形が完成しました。同庭園は、激動の幕末から維新かけ所有者が転々と変わり、日本の近代郵便制度の創設者である前島密もその一人でした。

いつもの散歩道ですが、今日のように、幕末から明治維新にかけての時代を想像しながら道草しながら歩くのも楽しく、新たな発見がありました。寒空では、隅田川の群れからはぐれたカモメが舞っています。寒い日が続きますが、また新しい出会いを求め歩きたいと思います。

奥三河の奇祭「御園の花祭」

11月12日・13日、友人の誘いに乗って、愛知県北設楽郡東栄町御園に行ってきました。集合した四日市から、車で東名阪自動車道路・伊勢湾岸自動車道路・新東名自動車道路を進み、一般道で徳川家の発祥の地「松平郷」で休憩をとりました。

3百年の太平の世を培った松平郷は、低い山が連なり水田は乏しい山里です。地図で見ると、山の上にはトヨタ関連企業の従業員向けのニュータウンが広がっていますが、国道沿いには、平らな土地はほとんどありません。山里の生活は豊かですが、忍耐力と共同意識を培ったようです。

そこから、くねくね曲がる谷底の道を進み、最後に山を越えた先に目的地の御園の集落はあります。峠を越えると見渡すばかり山また山です。一息ついて先に進みます。地区の公共施設跡や廃校を改造した建物が見えてきます。すぐの谷底まで住宅が散在しています。駐車場に車を置き、会場に進みます。

会場の廃校にかつては、谷底から30分から1時間は歩いて通学したそうです。既に祭りは始まっていました。山並みを見下ろす広場に作られた、熊野神社の拝殿にお参りし、友人の家の庭で実ったみかんを添えてご祝儀を奉納、お神酒と夕食を振る舞われました。

午後二時から始まった神寄せの神事に続き、各種の舞が奉納され、最後は24時間後に神様には帰っていただく(演目は次第によれば31にもなる)。国指定の重要無形民俗文化財で、郡内15箇所で数カ月に亘って開催される。衣装や踊りは室町時代のまま残っているそうです。一つの演目で、扇の手と棒塚と剣の3種の道具を使い踊ります。演目のの間には鬼やしゃもじなどの神様も出てきます。

笛と太鼓と歌くらにあわせ舞われる踊りは、一番30分程度のものが延々と続く。夜も遅くなると人も少なくなり、我々も仮眠室で小休止。外が騒がしくなったので出て見ると、メインの花の舞が始まっていました。今まで男の踊り手ばかりでしたが、神事祈願も含め、少女の舞もある華やかなものでした。関係者家族・親族の観客が多いようです。

テーホへ・テホへという掛け声と、単調ながらそれぞれ趣向を凝らした舞に、時間を忘れていると、外は白みはじめ、雲海の向こうの山並みが美しい。太陽が上って陽の光が会場に入る頃、湯ばやしで中心の鍋のお湯が撒かれる。帰りも半日かかるので、最後まで見届けられず会場を後にしました。

帰りは飯田線の走る天竜川の谷まで延々と降りていく、こんな山奥が故に貴重なお祭りが昔のまま残ったようだ。海の国とは別の意味で豊かな文化が育まれたようだ。友人の話では、山の尾根道の交流が、熊野信仰・秋葉信仰として残ったという。いい経験をさせていただきました。

ちなみに、隣で見学していた八王子の女性は、朝一番の中央線・新幹線・飯田線・町民バス・タクシーを乗り継いで、夕方五時にたどり着いたという。観光化されない行事ではあるが、人口減少・高齢化の影響で、演者は地元だけでは集まらず、東京の保存会の協力も受けているそうです。

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九十九里に遊ぶ

海なし県の埼玉に住んでいると、やたらと海が恋しくなる。子供が小さい頃は、勤務先の契約ホテルを利用して、房総半島から九十九里海岸まで、よくドライブをしたものである。今と異なり、高速道路はなく一般道をのんびりとというより、イライラしながらハンドルを握っていた、

最近は家族旅行ではなく、テニス合宿で年に1~2回訪れている。テニス合宿というとカッコ良いが、実態は昔からのテニス仲間との飲み会に年々近づいている。以前はテニスコートを取り合っていたが、年と共に謙虚さが増し譲り合いが多くなってきた。角が取れて円熟さが増したと言いたいところだが、口には出さないが体力の衰えがその原因である。

テニス合宿を始めてから40年が経過して、お互いに譲り合いの精神に磨きをかけている。初日のテニスは正午に集合して夕刻まで、二日目は午前9時から正午までの、正味1日のテニス合宿である。宿はお気に入りの国民宿舎であるサンライズ九十九里に連年投宿している。

正味1日のテニス予定であるが、最近の好みは砂浜散歩である。九十九里の浜辺は、遠浅の砂浜である。靴を脱いで、波打ち際を裸足で2時間くらい無心で歩く。秋の浜辺に人は少なく、沖合に波乗りを楽しむ人たちがちらほら見えるだけである。

車の騒音はなく人声もなく、潮騒だけの静寂の世界である。「古池や蛙飛び込む水の音」ではないが、潮騒がかえって静寂の世界を作り出している。日々の仕事の疲れを癒す楽しいひと時である。

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