経営承継事業部

カテゴリー:休憩室

東北六魂祭

図2 図1

 

 

 

 

東北六魂祭(ろっこんさい)とは、東北6県の各県庁所在地の代表的な6つの夏祭りを一堂に集めた祭りです。2011年3月11日に発生した東日本大震災の鎮魂と復興を願い、同年より東北6県都で持ち回り開催されています。   
1回は仙台市・第2回は盛岡市・第3回は福島市・第4回は山形市で、今年は第5回で、530日・31日、秋田で開催されます。
メインイベントは、「6大祭りパレード」で、「青森ねぶた祭(ハネト)」・「盛岡さんさ踊り(さんさ踊り)」・「仙台七夕まつり(すずめ踊り)」・「秋田竿灯まつり(竿灯妙技)」・「山形花笠まつり(花笠音頭)」・「福島わらじ祭り(ダンシングそーだナイト)」が、大通りを一方向にパレードします。6つの祭りが一ヵ所で観られるので、とてもお得な感じです。
毎年約25万人の人出が見られ、初夏の東北のイベントとして定着した感がありますが、一方で、本来の東日本大震災の鎮魂と復興の趣旨がないがしろにされ、商業主義に走りすぎているのでは、との批判があり、「今回で終わり」との声も出ています。
本来、「お祭り」は「土着性」の強いもので、場所や時期が異なれば、本来の趣旨は大幅に薄まります。特に「東北の夏祭り」は、あの「暑さ」がないと盛り上がりません。
しかし、あの「3.11」でさえ、人々の記憶から遠くなり、忘れ去られてしまう、という寂しい現実があります。
六魂祭の実行委員会は、『今なお、多くの方々が住み慣れた土地を離れた生活を余儀なくされており、震災に伴う様々な課題を風化させてはならない、という想いを強く感じています。復興はまだ道半ばであり、震災を語り継ぎ、東北の絆をより一層深めていくためにも、六魂祭の継続は重要な意義があります。』と「祭り」の力を述べています。
「祭り」には不思議な力があります。「祭り」には「陽」と「陰」があり、「陽」では、暑い日射しの中の「鉦や太鼓」がウキウキとした高揚感を煽り、力が湧いてきます。「陰」では、闇夜に浮かぶ「提灯」や風に流れる「笛の音」が逝った先祖を偲ばせます。
3.11」を忘れないためにも、「六魂祭」は続いて欲しいと思います。今度の「六魂祭」はふるさと「秋田」での開催です。観に行きます。

武蔵国国分寺

東山道武蔵路 武蔵国国分寺武蔵国国分寺7重塔

    東山道武蔵路          武蔵国国分寺        武蔵国国分寺7重塔

ここのところ、東山道ネタが興味深く、今回も体力作り散歩の参考として、取り上げました。

下野の薬師寺は弓削の道鏡が流されたお寺として有名ですが、日本3戒壇院として、奈良・福岡・栃木に置かれたものの一つだったそうです。これとは別に、聖武天皇の詔により全国に国分寺が置かれました。栃木の国分寺は現在の下野市天平の丘公園に跡が残っています。車で行くと、近くの住宅地の中に東山道跡が整備されています。

埼玉県の国分寺はどこにあるのでしょうか。実は、武蔵国は現在の東京と埼玉を合わせた地域であり、武蔵国国分寺は東京、武蔵野線沿線の西国分寺から歩いて行ける所にあります。その途中に、東山道の上野国新田からの支線「東山道武蔵路」の復元遺跡があります。大規模マンション計画地の真ん中に位置していたため、公園として残したそうです。不思議な空間です。

緑豊な国分寺崖線を下ると、国分寺があります。この建物は、旧国分寺の金堂跡に新田義貞が再建したことに始まるそうですが、その後何度か再建されているようです。敷地の中には資料館があり、七重塔のレプリカが建っています。

当初の国分寺跡は、現在の国分寺の南側に大きな公園として残されています。桜の大木が立っており、華やかさを残しています。

東京の一部とは思えないような田園の雰囲気を楽しみつつ、崖線沿いの真姿の池湧水群を巡ると、この地が、天平時代から豊かであったことが想像されます。きれいな水の小川沿いに野菜の直売所があり、地震などの天災にも強い土地柄が伺えます。川沿いに進むと、ふくろう・みみずくを飼っている喫茶店もありかつての鷹狩の地を思い浮かべます。

国分寺駅前まで戻ると、駅前に三菱財閥の岩崎家の郊外の別荘だった、「殿ケ谷戸庭園」があります。南斜面で陽の光を大きく受ける明るい地形で、開放感溢れる大胆な庭は、武蔵野の山野を思わせる芝の庭から、谷地の水の流れまで心憎い設計です。やはり日本は水の国です。水の大切さを実感する散歩が楽しめます。

武蔵国一之宮は、ここから北上した府中の大国魂神社と案内されています。

フェイスブックで国際交流

 フェイスブックカンボジア国旗日本国旗

私の学生時代の国際交流は、戦後間もない時代で気軽に海外旅行や海外留学ができる時代ではなかった。どのようなきっかけであったかは記憶にないが、中国の甘粛省の学生と文通をしていた。もちろん文字だけのやり取りで、交流と言っても臨場感がない。文章を書くのが億劫になり、自然と交流は途絶えてしまった。

文章や顔写真だけでは、ジャパニーズ英語も加わって誤解も生じる。他人の笑い話ですが、ある日本の女性がフランスのペンフレンドに、マンションに住んでいますと知らせ、それを知ったフランスの女性が来日してびっくり仰天!その驚きに日本の女性もびっくり!!!

それもそのはず。本来のマンションは大邸宅、日本語のマンションはアパートメントハウス! 不動産業者の営業用の言葉の誤用が、とんだ事件を引き起こしてしまった珍事。ジャパニーズイングリッシュにご用心。その後の二人の友人関係は消息不明。

2008年に、ロジスティックスの研修講師として、1か月間カンボジアに滞在した。当時のカンボジアは、メールの普及率は低く帰国後の交流は途絶えたままの状態。2年後の2010年に再度研修講師としてカンボジアを訪れた。2年間の進歩は速く、ほとんどの受講生はメールを使っていた。とは言え、共通語は非母国語の英語での交流は途絶えがちになった。

2011年にカンボジアの受講生からFBの誘いがあり、交流が再開された。お互いに非英語国民であっても、写真が中心で文章は数行の英語だけなので気楽な交流。お互いに非英語国民ですから、ブロークンインイングリッシュも気楽なもの。

個人の日常生活がオープンになり、親近感が増してきた。個人生活だけでなく、日本と違い動画も多く社会の動きも見えてきます。遠くにいても、身近に顔の見える国際交流ができる場がフェイスブックです。

 

「みちくさ」江戸歳時記4

 

みちくさ「江戸歳時記」シリーズを書き始めてからちょうど1年になります。昨年は雪の中に咲く紅梅・白梅を取り上げましが、今年も梅の話題から始まりそうです。

鶯今日は暦の上では立春です。春の日差しに誘われて散歩に出ました。大寒波到来のニュースが嘘に感じられるほど穏やかな陽気から、今年も仙台掘り川沿いは梅の花が満開です。

満開の梅の小枝をふと見上げると、香りに包まれ緑に跳ねる鳥の姿が目に飛び込んできました。鶯です。なんと「梅に鶯」、ましては正岡子規の「鶯の身をさかさに初音かな」の姿そのものなのです。しかし残念なことに泣き声は「ホーホケキヨ」でなはく小さく「チチチチー」でした。気持ちは浮き立ち、歌舞伎の名せりふ「こいつは春から縁起がいいわい」と一声発し、節分のお参りにと深川八幡(富岡八幡神宮)へと足を向けました。

横綱お参りを済ませ境内を散策していると、最初に目に入るのが本堂右奥にある「横綱力士碑」です。明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立されました。この碑には初代明石志賀之助から第71代鶴竜関までの四股名が刻まれています。その大きさは高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンといわれ、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です。新横綱の誕生の際には、相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、鶴竜関も昨年の107日にその名を刻みました。また両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信、渋沢栄一等の当時の政財界の名士の名も刻まれ、各界とのつながりの深さ物語ってくれます。深川八幡が相撲との縁が深いのは、江戸勧進相撲発祥の地であるからなのです。江戸時代の相撲興業は京・大阪から始まりますが、当時は賭け事や勝敗を巡つてのトラブルが絶えないことから、禁令が出され一時中断しました。その後、深川地区の振興と火災で社殿を焼失していた深川八幡の復興を目的として春と秋の2場所の勧進相撲が許されました。その最初の地こそが深川八幡だったのです。以降約100年間にわたって本場所が境内で催され、1833(天保4)年以降は本所。回向院が勧進相撲の定場所となっていきました。私たちになじみの両国国技館が定場所として始められたのは、1909(明治42)年からのことです。

一方、当官の境内には、横綱顕彰碑だけではなく「大関力士碑」も大鳥居のすぐ脇にあり、隣には「巨人力士長身碑」や「巨人力士手形足形碑」があります。時代が移ろうとも、国技としての相撲とのつながりは延々と続いているようです。

また、この縁からなのでしょうか、清澄白川の横綱通り沿いには、大嶽部屋(大鵬)、北の湖部屋(北の湖)、綴山(寺尾)等の5つの相撲屋があり、散歩の最中にびんづけ油の香る若い力士によく出会います。

短い昼休みでしたが、今日もまた江戸の歴史を楽しみました。午後の仕事に頑張れそうです。

 

獅子舞

hanten_33昨年末、中学校時代の懐かしい仲間との「飲み会」が、地元与野でありました。4年に1度の「同窓会」は、所用が重なり参加出来ず、残念な思いをしたので、今回は万難を排し予定を確保し、出掛けました。理由は、「元カノ」に会えるからではありません。「獅子舞」の名手に会えるからです。「元カレ」とは、中学を卒業して以来、50年ぶりの再会となります。

とは言っても、「元カレ」が「獅子舞」の名手とは「同窓会」のYouTubeを見るまでは全く知りませんでした。https://www.youtube.com/watch?v=22vzgkai2wQ 

「元カレ」の素性は、「岡田民五郎社中」の主宰者で、地元さいたま市では「江戸里神楽」として有名で、「幸福を呼ぶ寿獅子舞」として、祝賀行事・結婚披露宴・企業の各種イベントに引っ張りだこで、テレビやCMにも出ているタレントでした。
http://okadatamigoro-shachu.com/

皆さんご存じのように「獅子舞」は、獅子頭を頭にかぶって舞う伝統的な民族芸能で、日本各地の正月行事や晴れの日に舞われ、幸せを招くと共に疫病退治や悪魔払いとして古くより伝えられています。獅子に頭を噛まれると、その年は無病息災で元気に過ごせるという言い伝えがあります。獅子舞は大自然の霊力を我々に授けてくれる不思議な芸能です。

日本での獅子舞の始まりは、16世紀初め、伊勢の国で飢饉、疫病を追い払うために獅子頭を作り、正月に獅子舞を舞わせたのが始まりといわれています。その後、17世紀に伊勢より江戸へ上り、悪魔を払い、世を祝う縁起ものとして江戸に定着し、祝い事や祭り事で獅子舞いが行われるようになったそうです。

獅子舞が日本の各地に急速に広まったのは、室町時代から江戸時代の初期のころに、「江戸大神楽師」、「伊勢大神楽師」と呼ばれる団体が獅子舞を踊りながら全国をまわり、悪魔払いをしたのがきっかけであると言われています。

日本の獅子舞には、大きく分けて伎楽系と風流系の二つの系統があるそうです。

伎楽系は、獅子の頭につけた胴幕の中に二人以上の人が入って舞う、「二人立ち獅子舞」が多く、これは大陸から伎楽の一つとして伝来したもので伎楽系の獅子舞と言われ、本州中部以西の西南日本で多く見られるそうです。

風流系は、関東・東北地方などで行われている鹿舞(ししおどり)と呼ばれるもので、鹿(しし)の頭をかぶり胸に太鼓を付けた「一人立ちの舞い」で、太鼓を打ちながら踊るものだそうです。

「岡田民五郎社中」は風流系の流れを汲む獅子舞ですが、息子が結婚式でも挙げる機会があれば、是非呼んで前途を祝ってあげたいと思います。また、支援している企業の創立記念日などでも、景気づけし、売上増加に寄与できればいいなと思いました。

事業部紹介

経営承継事業部は、円滑な経営承継を実現するための、コンサルティング・セミナー・執筆研究を実践する経営コンサルタントのグループです。
経営承継、円滑な経営承継を実現するための経営革新、後継者に選ばれる企業にするための企業再生などの一体的商品開発により、クライアント満足を優先させることを基本方針として貫いています。

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