経営承継事業部

カテゴリー:休憩室

氷川神社

氷川神社氷川参道大宮公園

氷川神社新年風景             氷川参道新緑             大宮公園サクラ

埼玉県民になってはや32年、人生の半分を大宮で過ごしたことになります。健康診断でメタボという判定を受け、看護師さんの健康指導で、「散歩」を奨められました。不審者と思われるのも避けたいので、夜でなく、早朝散歩としました。自宅から30分から1時間の範囲というと、圧倒的に氷川神社近辺が多くなりました。歩いてみて今更ながら、知らなかったことが多いと気付きました。

最短コースは、NACK5スタジアムの横を通って、楼門前に出て境内に入ります。これは、大宮に住んでから毎年初詣で通る道です。いきなり神域に入る雰囲気がとても感動的です。神主さんが玉石を清めた上を歩く時の清新な雰囲気は朝故に味わえるものでしょう。小鳥の朝の鳴き声も楽しめます。

中距離コースは、旧16号線二の鳥居から三の鳥居まで、整備された参道を辿って歩きます。冬の凛とした寒さと枯れ枝、目に染みるような新緑の季節、夏の暑さとセミの鳴き声、けやきの黄葉など折々の季節を楽しめます。参道を急ぎ足で歩く人の波は途切れることがありません。

長距離コースは、参拝の前後に大宮公園内を散策します。桜の大木があり、春の桜、秋の紅葉が見事です。午前6時を過ぎると、遊園地で毎朝開催されているラジオ体操の音楽がかかり、老若男女が集まってきます。公園内の池で遊ぶ鴨の動きを見ていると、時間の経過を忘れます。

毎年の定例のお祭りの時期は、境内に案内・チラシが出ています。散歩ではありませんが、新年や十日市の夜店の変化も面白いです。最近は、川魚の露店はめっぽう少なくなりました。夜の営業時間の規制が厳しくなったせいか、夜店の賑わいも早く終ってしまうようになりました。

二の鳥居の近くに、お祭りに式次第が掲げてあったりします。毎年の御例祭には、正装の勅使が御幣物を奉持した随員と楽師を従え、本殿に参進奉奠するのだそうです。祭典中、楼門内には一般の参拝者は入れず、「知らなかったな」の状態です。全国十六しかない勅祭社の一つで希なる扱いです。祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の出雲系の三神で、ヤマト政権が全国平定した時の地元各地の有力者をまとめて祀ったのではとの俗説もあります。
この地に元来祀られていた神は、「アラハバキ(荒脛巾)」と呼ばれた地主神だそうです。歴史とは別の物語は、散歩の時間を楽しませてくれます。

6月30日は例年「茅の輪くぐり」のお祭りがあります。前日に設置されますので、お近くの方は早朝のお参りをお勧めします。

 

「みちくさ」江戸歳時記7

弥生4月も終わりに近づいていますが、いつもの年よりも5月が遅く感じられます。コバルトブルーの抜けるような空にひきかえ、風は真冬のままで、日差しがありがたく感じられます。楽しみな昼休みの散歩開始です。仙台掘り川の桜並木は、今では黄緑のアーケードにすっかり変わっています。ふと見上げると、白いはなびらがしっかりと強い風をこらえてながら頑張っています。清澄公園のハナミズキです。

清澄公園は、江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています。その後も江戸享保年間には、下総国関宿の藩主・久世大和守の下屋敷となり庭園としての形がつくられたようです。清澄公園の「清澄」のいわれは、深川開発で有名な深川八郎右衛門とともにこの地を開発した、清澄弥兵衛の名に馴染んでのことのようです。当初は弥兵衛町、そしてその後清住町となり、昭和に入って深川清澄町となりました。

この屋敷跡は、幕末の混乱期に徳川慶喜の所有となり、その後前島密を経て、明治11年に岩崎弥太郎の所有となりました。弥太郎は、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待するため「深川親睦園」として竣工させました。弥太郎の亡き後、夢は弟岩崎弥之助に引き継がれ、弥太郎が理想とした大名庭園を目標に、茶人磯谷宗庸を招き明治の庭園を代表する「回遊式林泉庭園」として、明治24年に完成したのが「清澄庭園」です。

ここにはかつて日本近代建築の父と呼ばれ、鹿鳴館やニコライ堂を設計したコンドル設計による、鹿鳴館時代の建築の粋を集めた巨大な洋館や工匠柏木貨一郎による和館もありましが、惜しくも関東大震災で焼失しました。大震災後、岩崎家は大正13年に破損の少なかった東半分を公園用地として当時の東京市に寄付し(清澄公園)、昭和7年に清澄庭園として一般公開されました。
庭園内を散策すると、岩崎家が自慢の汽船を用いて全国の産地から集めた無数の名石が目に入ります。今では、そのうえで昼寝するカメが目を楽しませてくれます。また、庭園の奥には松尾芭蕉の「古池の句碑」があります。有名な「古池や蛙飛び込む水の音 」の句が描かれた碑です。もともとは昭和9年に隅田川のほとりの芭蕉庵跡に建てられたものでしたが、改修の際に、ここに移されたそうです。

清澄庭園をぐるりと回るとレトルな街並みに出会います。今では珍しい長屋形式の住居が建っています。清澄通りに沿いにあるその住居は通称、清澄長屋と呼ばれ、80年以上も前に建てられたアパートです。そのアパートは数年前に再開発され、今は豪華なファッション・ビルに変身しています。ここ数年、清澄長屋に数々の洒落た店がオープンしています。80年の古い雰囲気とアールデコ調の外観に憧れた人たちが集まるモダンな店やギャラリーが増えています。

至福の時間は簡単に過ぎてしまいます。後ろ髪を引かれる思いですが、ひとまず楽しみは後にのこして帰ることにしました。
 清澄庭園                                       旧洋館(清澄庭園ガイド倶楽部HPより)

1      清澄庭園(亀)          32

 

 

 

花と人形の町・鴻巣

となり街「鴻巣」のキャッチフレーズは、「花と人形の町」です。
「花」は、花卉生産が盛んで、パンジーの産出額は7億円(平成24年度)で、日本一です。そ図1の他にも、家庭園芸でなじみの深いプリムラ・サルビア・マリーゴールドなどの出荷量がトップクラスだそうです。
ちなみに、鴻巣市の「市の花」はパンジーで、マンホールの蓋にも可愛らしいパンジーの花が彫刻されています。

「人形」については、埼玉県は「ひな人形」をはじめとする「節句人形」作りが盛んで、出荷額67億円で全国第一位・約46%のシェア(平成19年度工業統計製造品出荷額)を占めています。岩槻は「岩槻人形」として「節句人形」が著名ですが、鴻巣は「ひな人形」が有名です。

鴻巣市は関東平野のほぼ中央に位置し、約380年の伝統を誇る「ひな人形の町」としてその歴史は古く、旧中山道の「人形町」には多くの人形店が軒を重ねています。江戸時代には11軒だった鴻巣のひな屋は、明治時代に入りその繁栄ぶりは頂点に達し、明治35年発行の「埼玉県営業便覧」によると、越ヶ谷6軒・大沢(現在の越谷市)2軒・岩槻3軒に対し、鴻巣の人形業者31軒・職人300人という記録がその活況を伝えています。現在でも9軒のひな人形製造業者が頑張っているそうです。

さて、その頑張りの表れは、「びっくりひな祭り」です。今年で12回目の開催となる全国図2的にも有名になった「ひな人形で飾る日本一高いピラミッド雛壇」です。31段・高さ7mです。
以前は市役所のホールに飾られていましたが、今は、JR鴻巣駅の商業施設「エルミこうのす」の広場に飾られています。アクセスが良くなったので多く方がご覧いただけるようになりました。たくさんの人形は、市の広報誌などの呼び掛けに市内外の家庭から提供されたもので、その数約5000体超だそうです。主催は鴻巣市観光協会ですが、実行委員会がボランティアを募集し、皆さんできれいに飾り付けしたそうです。

昔からひな祭りは春の訪れを祝う行事でもあるので、立春の2月4日頃から飾り付け、3月3日が終わったら、早めに片付けます。今年の「びっくりひな祭り」も2月17日から3月6日までです。ぜひご覧になってください。

イラン訪問記

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平成27年11月19日より26日までの8日間、中東のドバイとイランを訪問した。現地での実質的な滞在期間は、ドバイ1日とイラン5日でした。イスラム国の訪問は、平成23年のウズベキスタンに続く2カ国目です。

ドバイは、アラビア海に面した砂漠の中のオアシスであったが、近年金融センター、高級リゾート地、ハブ空港として名を成し、巨大ショッピングモールも繁栄している。しかし、今回の原油価格の大幅下落で、砂上の楼閣になるか、行く末を見守りたいものです。

イラン国際空港を降り立つと、イスラム教の指導者ホメイネ師とハメネイ師の巨大写真のお出迎えです。マスコミ報道とは対照的に、市中では軍人・革命防衛隊・警察官の姿は見当たらない。10名前後の人が、家族の反対で訪問団に参加できなかったが、外見上は平和そのものです。小銃を持った軍人との遭遇は、世界文化遺産に指定されている橋(写真真ん中)のふもとの警察官詰め所で1名見かけただけでした。

イラン訪問の主目的は、ビジネスチャンスの開拓で、日本の諸機関(大使館、日本貿易センター、JICA,JETRO)訪問に加えて、イランの自動車メーカー、中小企業支援機関を訪問した。世界文化遺産に指定されている、古代ペルシャの遺跡訪問は副次的目的です。しかし、写真としてあるいは心象としてのイメージは、ペルシャ文明の文化遺産です。

イスラム寺院や王族の宮殿の共通点は、建物の入り口前の水を湛えた巨大な長方形の池でしょう。砂漠の中での大きな池は、富と権力の象徴でしょうか。すべての寺院と宮殿に、水を満々と湛えた池がありました。

心残りは、2つあります。早朝出発と遅い時刻の投宿で、街中のぶらり一人歩きができなかったことと、電車の旅が無かったことです。しかし、古代ペルシャ帝国の都エスファハンから、現代イランの都テヘランまでの、8時間の砂漠の中のバス旅は、砂漠の国イラン旅行を満足させてくれるものでした。

伝統工芸産業の再生

                                                kougeihin

                                                     京友禅    からくり人形    ミウラ折り

 ものづくり日本の原点は、徹底的に品質にこだわり、技術の限界に挑戦する職人魂である。「ものづくり」という言葉には、日本人が長い歴史の中で受け継いできた精神性のようなものを感じる。この感性は、美しい四季がある一方で、地震などの厳しい自然災害など多様な環境の中で、日本人の遺伝子に書き込まれてきたのかもしれない。その細やかな感性を表現するために、日本人は、表現豊かな日本語を生み出した。そして、この微妙な感覚を表現する言葉は、「ものづくり」の高度な技術継承に必要不可欠なものであった。

現代に継承されている織物や刀剣、からくり人形などの伝統工芸品は、当時のハイテクで作られたものである。これらの工芸品は、美しさと精緻さ、職人の加工技術の高さや工夫などの集大成であり、芸術的な価値をもっている。

しかし、日本の伝統工芸品の生産額は、1990年をピークとして、バブル崩壊等の影響で急激に衰退、低迷し、現在はピーク時の約2割程度になってしまった。その主な理由は、生産額の減少、それに伴う生産性の悪化、という負のスパイラルに陥っているためと言われている。

しかし、なぜ伝統工芸産業がこれほどまでに衰退してしまったのか、その最大の要因は、営業力不足と思われる。伝統工芸事業者の多くは、販売を代行する産地問屋を経由して販売している。そのため、不況で問屋からの注文が減少すると、他の販売チャネルがないため生産額も減少してしまう。そして、伝統工芸産業の衰退は、地域産業衰退の一要因にもなっている。

いいものを作れば売れる時代は終わり、経営環境が目まぐるしく変化する中で、伝統工芸の再生支援は、中小企業の経営支援を業とする我々の事業領域でもある。営業を通じて、顧客とのコミュニケーションから時代に適合した新商品開発をする。これにより、伝統工芸品のブランド力が高まり、海外からの低価格な商品との差別化を図ることができる。

伝統工芸は、ものづくりの長い歴史を経て、積み上げられたノウハウの結晶である。その技法や技術をヒントにして開発された最先端技術は、多数あるといわれている。例えば、東京大学名誉教授の三浦公亮氏が考案した折り紙技法である。この技法は、太陽電池パネルや地図など平面物の折り畳み法として活用されている。このように、伝統工芸の技術と最新の技術は、開発のアイデアを考案する上で、強い結びつきがある。

海外での高い評価から、改めて日本国内で、伝統工芸品の良さを見直す動きが出始めている。職人が時間と労力をかけて丁寧に仕上げた商品に価値を見出して、若者が後継者として働くことができる産業に再生できることを願う

事業部紹介

経営承継事業部は、円滑な経営承継を実現するための、コンサルティング・セミナー・執筆研究を実践する経営コンサルタントのグループです。
経営承継、円滑な経営承継を実現するための経営革新、後継者に選ばれる企業にするための企業再生などの一体的商品開発により、クライアント満足を優先させることを基本方針として貫いています。

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