経営承継事業部

カテゴリー:休憩室

「みちくさ」江戸歳時記6

神無月、台風による長雨の9月も終わり、今日は日差しがとても優しく感じられ、最高の散歩日よりです。足の向くまま、気の向くままがモットーの我が散歩です。佐賀町河岸を隅田川に沿って上っていくと、芭蕉の銅像(芭蕉庵史跡展望公園)が目に入ってきます。小名木川の河口です。今日の目的は、この河国の傍らにかかっている橋、「万年橋」です。

「万年橋」は、江東区内の橋のなかでも古く架けられた橋の一つと言われています。架橋された年代は明らかではありませんが、 1671年の江戸図には、万年橋が載っています。また、 1680年の江戸図には「元番所橋」として記されています。元番所(川船番所)は万年橋の北岸に置かれ、川船を利用して利根川水系から江戸に上る人と物を検査する川の関所でした。そこで、小名木川に架けられた橋は、船の通行を妨げないように高く架けられていました。そのため、橋の形は虹の形をした優美な橋であり、橋上からの富士の眺めも素晴らしいかったため、安藤広重は「名所江戸橋百景」に『深川万年橋』(写真1)として取り上げ、また、葛飾北斎も「富嶽三十六景」に『深川万年橋下』(写真2)として錦絵を描きました。

「万年橋」は、橋の美しさだけではなく江戸庶民の生活にも溶け込んでいました。広重の描いた『深川万年橋』は、橋桁に吊るされた放し亀(ニホンイシガメ)を大胆に描いたものです。これは、放生会に亀を放す「放生会(ほうじようえ)」の習慣を描いたものです。放生会とは、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教的な慣習といわれています。江戸時代には寺社の行事に取り入れられたことから、支配階級の慣わしから庶民の生活ヘと広まっていったようです。

しかし、「万年橋」の人気は江戸時代ばかりでありません。昭和の世になっても深川「万年橋」は小説家達を魅了して止みません。永井荷風の「深川の散歩」、池波正太郎の「鬼平犯科帳」の『剣客』『蛇苺』『引き込み女』などに登場します。江戸時代の橋は、人が集まり、出会い、分かれる場所でした。人生の出発駅、終着駅、心の目印として物語には橋は欠かせません。

藤沢周平の短編集「橋ものがたり」の中に『約束』という小説があります。主人公の幸助は鋳(カザリ)職人、幼馴染みのお蝶は酌とり女です。貧しい二人の葛藤の中での「万年橋」の上での出会いの話です。幸助とお蝶との五年ぶりの万年橋での再会を物悲しく描いています。「万年橋」の魅力は時代が代われども変わらないようです。

現在の「万年橋」は、1930(昭和5)11月に架け替えられた鉄骨作りの橋です。全長56.25m、幅員17.2mのアーチ型の橋です。当時の木造の橋と比べて物足りなさを感じますが、その趣は深川「万年橋」として時の流れを感じさせてくれます。今では、富士山は見えませんが、橋の上からは、隅田川に架かる最も美しい橋といわれる清洲橋(ケルン市に架けられたライン川の吊り橋をモデルにしています)の眺めが散歩の一時を楽しませてくれます。隅田川の川風には秋の気配が感じられ、カモメ達の鳴き声も軽く今日の散歩を楽しませてくれます。隅田川では抜けるような青空の下、スカイツリーを背に遊覧船が行きかっています。これがまた新しい「万年橋」の眺めなのでしょう。

           写真1 出典:日本郵政   写真2 出典:日本郵政       万年橋 現在(筆者撮影)                      

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花火

夏の夜の風物詩といえば「花火」です。今年の夏も各地で花火大会が開かれ多くの人が「花火」を楽しんだことと思います。

よく耳にする「日本三大○○」というランク付けは日本独特のものですが、「花火」でも「日本三大花火大会」と呼ばれる大会があります。現在、「日本三大花火大会」と呼ばれているものは、「全国花火競技大会大曲の花火」(秋田)、「土浦全国花火競技大会」(茨城)、「長岡まつり大花火大会」(新潟)の3つです。

このうち、大曲と土浦は、内閣総理大臣杯が授与される権威のある大会としても知られ、全国の花火職人たちの芸術性の高い力作花火が観られ有名です。一方、長岡は、「(新潟県中越地震)復興祈願花火フェニックス」をはじめとするスターマインや正三尺玉など、スケールの大きな花火で構成され、こちらも多くの花火ファンから愛されています。

「大曲の花火」は、例年8月第4土曜日に開催され、1万8000発、人出約70万人以上(大仙市の人口約10万弱)です。「土浦の花火」は、例年10月第1土曜日に開催され、約2万発、人出80万人以上(土浦市人口15万人弱)です。「長岡の花火」は、例年8月2日・3日に開催され、約2万発、人出80~90万人(長岡市人口28万人弱)です。

因みに、打ち上げ数の最も多い花火大会は「諏訪湖祭湖上花火大会」で約4万発です。また、人出の最も多い花火大会は「江戸川区花火大会・市川市納涼祭」で約139万人(江戸川区側90万人・市川市側49万人)です。有名で超人気な「隅田川花火大会」は、約2万発・約100万人です。

その「隅田川花火大会」は、1733年に飢饉発生し、江戸ではコレラが猛威を振るい多数の死者を出した暗い世相の中、将軍吉宗が死者の慰霊と悪霊退散を祈り、両国大川(隅田川)の水神祭りを催し、それに合わせて大花火を披露し、これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われています。

さて、地元鴻巣市では、10月10日、災害復興支援・燃えよ!商工会青年部・「こうのす花火大会」(1万5000発、人出50万人)が開催され、今年で14回目です。自慢は「世界一の魂のラストスターマイン」で、四尺玉・三尺玉・尺玉・300連発です。最後の最後に300発のスターマインの連発です。魂が揺さぶられる「音」「光」「煙」、一見の価値ありです。とりわけ、正四尺玉の轟音は鳥肌ものです。

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2014こうのす花火大会・世界一の正四尺玉

大國魂神社

社会人になって、はじめて住んだのが、府中の独身寮でしたので、府中近辺は、思い出深い地となっています。夏になると、京王線府中駅前にある大國魂神社の盛大な暗闇祭り(別称スモモ祭り)があり、経済成長期の勢いを感じました。

もともと、武蔵国造は、稲荷山古墳のある行田市を中心とし、ヤマト朝廷とは鉄剣を受ける立場でしたが、その後敵対し、秩父国造の領域と合わされました。大國魂神社には出雲系の地元の神様が祀られていましたが、大化の改新のあと、この地に武蔵国国府が置かれ、近くに武蔵国国分寺が置かれると合わせて、地元の神は大宮氷川神社に移されたとの話もあります。

ヤマトから派遣された国司が、武蔵国国内の神社に一度にお参りできるようにと、大國魂神社に、武蔵国の主要神社六社を置いたことから、武蔵国総社と呼ばれるようになりました。

久しぶりにお参りすると、境内には、多くの欧米系外国人が見受けられました。ミシュランの旅行ガイドで、富士山を眺める高尾山と合わせて紹介されているためとのことでした。さすが東京はインバウンドでも広がりがあります。境内には、宮乃め神社があり、安産の御礼に破れ柄杓が多数お供えしてありました。

最近府中周辺で、遺跡の発掘が進んでいるそうです。JR武蔵野線、府中本町駅前には、広大な空き地が広がっていますが、国府の御殿地・家康御殿との表示があります。家康は、秀吉から武蔵国に転付を命ぜられた時にここに邸を建てたそうです。空き地について、今後の利用計画は立っていないそうです。大國魂神社の東側には、国衙地区として、役所跡が発掘され、柱だけが復刻されています。

武蔵国国分寺の稿の最後で、武蔵国一之宮は府中の大國魂神社と記載しましたが、府中の大國魂神社は、武蔵国の各地にある神社の「総社」が正しい位置づけでした。
9月27,28日には、秋季祭(くり祭)が行われます。

大宮氷川神社は、武蔵国三之宮だそうですが、別の意味で現在の天皇家と関わっています。

農業に学ぶ選択と集中

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自宅で仕事をしていると、種々雑多な迷惑電話が入る。化粧品・保険から、お墓の売り込みまでお相手をしなければならない。電話を通して、相手の都合にかまわず、自宅の中まで土足で入りこむようなものです。

そのような電話の中に、かなり名の通った農業法人からの電話がありました。電話の内容は、一房千円で売れるイチゴが売れに売れているので、ガラスの温室を2棟増設したい。ついては、一口30万円で投資しませんかとのこと。配当は年7%で、良く言えば最近はやりのマイクロファイナンス。

和牛商法の匂いを感じながら、遊び半分で話を聞くと、1ダース1万2千円のパックが、お土産用に百貨店で売れるとのこと。値段はとにかく、十分に摘果をすることで高額商品を生み出す農法です。

利益を維持する経営手法として、選択と集中が注目を集めています。利益を生まない事業、将来性のない事業を廃して、経営資源を将来性のある事業や利益を生み出す事業に集中することで、企業の成長と発展を図る経営戦略です。その成功事例が、数多く出版されています。しかし、選択と集中は、言うは易く行うは難しの格言の通りです。

我が家の梅の木は、初めて豊作になった。豊作と言うよりは、豊作すぎたと言うべきでしょう。採れすぎです。実が小さいうちに、勇気を振り絞って弱そうな実を摘果した積りです。しかし、結果的には実をつけすぎたことは写真の通りです。青い梅は自宅の梅の実、少し熟しすぎた実は近隣の農家から分けていただいた物です。実の大きさは、半分以下です。折角実った梅の実を、この目で見ながら摘果するのは、蛮勇をふるう勇気が必要です。

企業外部のコンサルタントとして、選択と集中を提案することは経営理論として正しいが、現場の従業員の顔が見える経営者は、心を鬼にして実行しなければなりません。あるアメリカ企業が、アメリカ本土の工場を閉鎖するとき、現場の従業員の顔を知らない日本の支社長を、本社の社長に抜擢してリストラをやらせました。彼は、従業員を切って切って切りまくり、オリエンタルナイト・東洋の騎士と呼ばれているそうです。

「みちくさ」江戸歳時記5

水無月、梅雨の季節にもかかわらず晴れの日が続き、今日も深川の散歩を続けています。川沿いの梅の木は青い実をつけ、熟した丸い実を川面に散らしています。

丸いといえば、前回お話しました深川八幡宮(富岡八幡神宮)の境内奥の丸い大きな石の記念碑を思い出します。「カ持碑」と「力石(ちからいし)」です。深川では同じような丸い石を、散策する道筋にある神社や寺院でよく見かけます。調べてみると、これらはみな「力石」のようです。

「力石」はここ深川だけではなく全国にあるようです。「力石」とは、力較べに用いられる大きな石のことをいいます。力石の起源は石占いの一種で、かつてはこれを担ぎ上げることで、その年の豊凶を占つたといわれています。

隅田川沿いの日本橋や深川佐賀町界隈の神社仏閣には、たくさんの「力石」が奉納されています。江戸時代海上運送の起点として繁栄をたどる隅田川両岸には、大名の藩米を扱っていた浅草蔵前の札差の穀倉が川沿いに立ち並び、その荷役人夫たちが、娯楽のひとつとして力自慢を競っていたのではないでしょうか。これが19世紀には、祭りと喧嘩の好きな江戸っ子の気質に合い、寺社の祭りの催し物として盛んに行なわれるようになったともの思われます。

天保四年(1833)六月には深川八幡で、当時の将軍家ご上覧による一大興業が行なわれたそうです。「力石」は、幕府が人と人のぶつかり合いの相撲を禁止していたその間も、江戸庶民の楽しみとしてす社寺の祭礼の度に続けられ、江戸っ子の人気を博していたのでしょう。大相撲の始まった深川八幡に「力持碑」として記念碑があるのが分かるような気がします。

力自慢たちの心意気が遺された「力石」は、散歩道のスタートの豪商紀国屋文左衛門がお祀りしたといわれる「紀文稲荷神社」に始まり、成田山の別院の「深川不動尊」、江戸、明治と米問屋肥料問屋が軒を並べ商売繁盛を祈った「佐賀稲荷神社」と、訪れるたびに楽しませてくれます。「力石」には、力自慢の人達が差し上げることの出来た大石に、自分の名を刻み記念としたものや、思い人への歌や絵、店の宣伝などを刻んだものと色々なものが奉納されており、退屈させません。

現在「力石」は、木場の角乗りとともに、東京都指定無形民俗文化財(民俗芸能)「深川の力持ち」としてその伝統が受け継がれて、毎年10月の大東京祭で公開されております。

夏祭りを前にした深川八幡の境内はひっそりとしており、雨にぬれた「力石」が、逆に江戸深川の賑わいを想像させてくれてい

  深川八幡           紀文稲荷             佐賀稲荷

深川八幡2  紀文稲荷力石2  佐賀稲荷2

    

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