経営承継事業部

カテゴリー:休憩室

歴史に学ぶこと

 

第一次世界大戦後の、ドイツ・ワイマール共和国が崩壊し、なぜ、凶暴なヒットラーが選挙を通して政権を確立できたのか。その原因は、100年をかけても支払できない巨額な賠償金に絶望したドイツ国民の怒りにあった。このようは意見を聞かされたことがある。
最近のヘイトスピーチを耳にするたびに、ヒットラー政権誕生の背景を思い出します。気になるのは戦中世代ではなく、戦争を知らない若い世代の動向です。自由な歴史研究の成果ではなく、国策として進められている中国の反日教育の結果は、次の世代にまで引き継がれるでしょう。
条約を無視して、道徳論で責める韓国の反日感情は、国家としては受け入れ難い難問です。交わることのない歴史認識論が、日本の若い世代に絶望を与え、ワイマール共和国の悲劇が日本で再現されることのないことを願わざるを得ません。
歴史は自然科学ではありませんから、再現することはできません。数えきれない無限の歴史的事実から、意図・妄想をもって特定の事実だけを紬だし整理したのが歴史です。そのような歴史も、言論の自由な社会にあっては、批判にさらされ洗練された結果が、多くの人を納得させる歴史になります。
歴史に再現性はありませんが、歴史は繰り返すように変形して再現します。日露戦争後の日本のナショナリズムの歩んだ道を、中国や韓国が反日感情をばねにして再現しないことを望んでやみません。
歴史書は、歴史を編纂する人や国家の意図や妄想により歴史的事実の一部を選択し編纂した結果です。言論時自由のない社会・国家では、批判に耐える歴史は成立しません。

「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない。」ユリウス・カエサル

渋沢敬三

近くの大宮公園内に、埼玉県立「歴史と民俗の博物館」がある。定期健診の時に通るが、車だと通りすぎてしまう。今回は、いい季節で自転車を利用したこと、検診もいつになく早く終わったため、ふと立ち寄ってみた。

新緑の木立の道を進むと、団体の学生が楽しそうに歩いて行く。大宮公園で野外活動をするようだ。自転車置き場からは、歩いて進むと見慣れた入口が見えてくる。静かな雰囲気が好ましい。

特別展で、ATTIC MUSEUM(屋根裏部屋の博物館)を開催していた。埼玉の3大偉人の一人渋沢栄一のお孫さんの渋沢敬三のコレクションが展示されていた。【他の二人は、塙保己一(盲目の国学者)と荻野吟子(日本初の女性医師)】

渋沢栄一は、日本商工会議所の生みの親で有名だが、跡継ぎの栄一の孫、渋沢敬三はあまり知られていない。実は、渋沢家は大正4年に19歳で継いだものの、栄一の興した会社は個人のものではないと、各社の経営は引き継いでいない。

大学卒業後、横浜正金銀行・第一銀行を経て、46歳で日銀副総裁に就任している。終戦前後激動期を経済人として活躍し、昭和193月に48歳で日銀総裁に就任、昭和2010月に49歳で大蔵大臣に就任、預金封鎖・新円切替等戦後のインフレ対策を行っている。その後5年間公職追放の指定を受けていた。

今回の特別展では、大学の頃収集を始めた玩具・絵馬など、赤ものと呼ばれるだるま等の置物が多数置かれている。現在初市で出ているだるまに比べ、全国のだるまの多様性には驚かされる。

社会人になった後は、収集対象を「民具」として、全国の有志に呼びかけている。既に役割を終えたもの・容易にかわりのものが作れるものが多く集まっている。農業・漁業・手工業に係るものからは、明治期の地域の生業(養蚕、藍玉、大麦・小麦等商品作物生産)が良く分かる内容になっている。

戦前は、鹿児島県の薩南十島調査を始めとして、樺太・台湾・朝鮮半島・ミクロネシアまで調査は広がっており、資料の現物から写真・映画まで貴重なコレクションで、失われた文化の多様性・希少性に改めて感心する。

公職追放後は、民俗学・民族学・漁業史など学問としての確立にも尽力した。今後、各地に残された資料はどうなるのかと心配になる。

2足のわらじでも、生涯貫き通す精神力に学びたい。

今回の特別展は、56日(火)までなので、お見逃しなくposter

「みちくさ」江戸歳時記2

立春を過ぎたばかりなのに、東京は45年ぶりの大雪でした。陽射しの暖かさに誘われて、雪の残る中を今日もウォーキングに出かけました。西大島川筋には、例年よりも早く紅梅・白梅の花が満開を迎え、真っ青な空と雪に映えまぶしく咲き競っていました。梅の香りに誘われ、今日は遠出しようと思い立ち、芭蕉庵跡を目指すことにしました。

芭蕉庵は、徳川家康の命を受けて開削された、隅田川と中川を結ぶ運河の小名木川のほとりに建てられていました。芭蕉庵近くの小名木川にかかる橋が、北斎や広重に描かれて有名な「萬年橋」です。藤沢周平の「橋ものがたり・約束」にも登場しています。さらに、この橋の北岸には、時代劇小説にもたびたび出てくる、航行する船を取締る船番所(その後中川に移されたため「元船番所」といわれる)も置かれていました。

橋を渡ると、橋の北側に芭蕉稲荷神社が祀られ、芭蕉庵旧跡として往時を偲ばせてくれます。1917年(大正6年)津波来襲の後、芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が偶然発見され、地元の人々の尽力により、ここを芭蕉庵跡と推定し祠に石蛙を祭り、芭蕉稲荷として祀られたものです。芭蕉が隠遁生活を始めた芭蕉庵は、萬年橋近くの生簀(いけす)番の小屋を改築したものでした。その後、火災などに見舞われ2度ほど建替えらました。ところが芭蕉没後、芭蕉庵は武家屋敷の一部となり、幕末、明治にかけて滅失し、その場所は長く行方不明になっていたのです。芭蕉庵のいわれは、門人の李下から芭蕉一株を贈られ、芭蕉の葉が見事に繁って名物となったことから、草庵を「芭蕉庵」の庵号で呼ぶようになりました。この時から芭蕉は、「桃青」を改め、俳号として「芭蕉」を使用するようになりました。「李下、芭蕉を贈る『ばせを植ゑてまづ憎む萩の二葉かな』」と詠んでいます。

芭蕉は、1680年(延宝8年)から1694年(元禄7年)の大阪で病没するまで間、芭蕉庵を本拠として、庵住と行脚の生活のくり返しながらの名吟の数々を残したのです。かの有名な「古池の句『古池や蛙飛芭蕉稲荷びこむ水の音』」も、この芭蕉庵で1685年の春に詠まれました。

立春とはいえ、隅田川と小名木川が出会う芭蕉記念公園に立つと、風は冷たく、河岸の雪はまだ春が遠いことを伝えています。しかし。そんな隅田の流れを芭蕉翁の像は、春の訪れを待ちかねるかのように眺めていました。当時の芭蕉庵からは、遠く浅草の観音様と遠近一面雲と見まがうばかりの桜が咲き連なる様子が眺められ、「観音の甍みやりつ花の雲」と、詠っています。

今では、ビルばかりの景色ですが、春になると河岸には滝廉太郎の「花」の歌のような桜並木や、東京スカイツリーの姿が目を楽しませてくれます。春のうららかな日を思うと、なぜか足取りが軽くなってきます。

   梅                                                      芭蕉記念公園

         桜芭蕉記念公園芭蕉稲荷                              芭蕉稲荷

 

ボナリ高原

母成峠古戦場碑

母成峠古戦場碑

ボナリ高原ゴルフクラブ OUT3番コース

ボナリ高原ゴルフクラブ
OUT3番コース

 「ボナリ高原」と聞いて、「ピン」とくる人には、3種類いるはずです。                                       一つは、相当歴史に詳しい人です。                                                         「ボナリ」と聞くと外国の地名のようですが、「母成」と書きます。歴史上で有名なのは、「母成峠の戦い」(慶応4年8月21日)で、会津戦争戊辰戦争)の戦いの一つです。会津藩境の母成峠(現・福島県郡山市猪苗代町)を守る旧幕府軍800が新政府軍2,200と戦うのですが、兵力及び兵器の差で勝てず敗走し、新政府軍は若松城下に殺到する結果となりました。

 

二つは、NHKの大河ドラマをよく見る人で、「八重の桜」でも描写されました。                                 第23回放映「白河口の戦い」、第24回放映「二本松の戦い」、第25回放映「母成峠の戦い」、第26回放映「鶴ヶ城籠城戦へ」、第27回「鶴ヶ城籠城戦」と続きました。「ボナリ」が最後の砦であったことがわかります。

三つは、ゴルフが大好きな人です。                                                          昨年9月30日の日経新聞に、「ゴルファーが挑みたい名物ホール 東西ベスト5」という特集記事があり、東の第一位に選ばれたのが、「ボナリ高原ゴルフクラブ」の「OUT3番ホール」でした。私は、これに「ピン」ときました。「OUT3番ホール」は456ヤードのパー5。「怪物ホール」の異名を持ち、ドライバーで220ヤード以上飛ばせるロングヒッターならティーグラウンドから断崖越えを狙えます。「断崖越えのスリル、豪快さは比類がない。正面に磐梯山、背後には安達太良山が位置し特に秋色がまばゆい」、「これほどまでにワイルドなホールを有するコースはほかにない」などの高い評価がありました。この記事を見たゴルフバカの私はもうソワソワです。

一年後、念願が叶いプレイすることができました。福島に勤務する息子を誘い、10月30日、「OUT3番ホール」に立ちました。目の前に拡がるのは深い谷です。まわりの木々や葉っぱは赤や黄に輝く錦色の世界ですが、目に入りません。深呼吸して、ドライバーを振りました。ボールはスライスして、谷底に消えました。でも、大満足です。                                 目標が出来ました。来年もチャレンジです。腹筋・背筋を鍛え、股関節の可動域を拡げ、キャリーで220ヤードを超えるスイング改造です。

ハトムギ

ハトムギ1ハトムギ2

ハトムギの花                ハトムギの実

隠れた自然食「ハトムギ」をご存知ですか。利尿効果もあり健康によく、更に美肌効果があるということで、日本各地で地域おこし商品として栽培され、料理の素材やハトムギ茶等に利用されています。

 ハトムギ、玄米、月見草、爽◯◯茶・・・。のコマーシャルの最初に出てくる、漢方薬として認められている香り高く薬効ある材料です。カフェインが入っていないこともあり人気が高く、ハトムギ入のペットボトル茶は、飲料メーカー各社の定番長寿商品になっています。

 日本で栽培されるようになったのは、江戸時代からで、漢方薬「ヨクイニン」の原料としてで、中国か朝鮮半島経由と言われてきました。現在は遺伝子による解明が進んでおり、現在日本で栽培されている品種は、朝鮮半島系とされています。

 コメ・大豆の連作障害の防止になるとして昭和56年の水田転作奨励の重点政策作物に指定されたことから、各地で注目されました。しかし、昭和62年には指定解除となり、現在に至っています。その後も栽培を続けてきた栃木県小山市(私の生誕地)が生産高第一位でしたが、3.11の風評被害もあり、現在は首位の座を譲っています。

 実は、私自身就職してすぐにイボが出てきて、直すのにはハトムギが有効との話を聞き服用しましたが、程なく治癒、現在に至るまで再発しておりません。当時会社の前にある漢方薬局のお世話になりましたが、店主によれば、原因は中華料理の油と相性が良くなかったと言われました。

 そんな経験もあり、漢方薬の効果に疑いはありません。毎日飲むお茶にハトムギが入ったということで、爽◯◯茶発売後、しばらくは毎日飲んでいました。ただ、漢方薬には体質によって効果の大きな差があるので、医師・薬剤師の指導が欠かせないそうです。

 ハトムギの国内供給量は一時12千トンになりましたが、現在は10千トンで推移しています。大半がタイからの輸入で、国産は800トンで安定しているとのこと。こんなニッチな作物にも色々な歴史があることに驚きました。

 

 

 

 

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