経営承継事業部

カテゴリー:休憩室

大國魂神社

社会人になって、はじめて住んだのが、府中の独身寮でしたので、府中近辺は、思い出深い地となっています。夏になると、京王線府中駅前にある大國魂神社の盛大な暗闇祭り(別称スモモ祭り)があり、経済成長期の勢いを感じました。

もともと、武蔵国造は、稲荷山古墳のある行田市を中心とし、ヤマト朝廷とは鉄剣を受ける立場でしたが、その後敵対し、秩父国造の領域と合わされました。大國魂神社には出雲系の地元の神様が祀られていましたが、大化の改新のあと、この地に武蔵国国府が置かれ、近くに武蔵国国分寺が置かれると合わせて、地元の神は大宮氷川神社に移されたとの話もあります。

ヤマトから派遣された国司が、武蔵国国内の神社に一度にお参りできるようにと、大國魂神社に、武蔵国の主要神社六社を置いたことから、武蔵国総社と呼ばれるようになりました。

久しぶりにお参りすると、境内には、多くの欧米系外国人が見受けられました。ミシュランの旅行ガイドで、富士山を眺める高尾山と合わせて紹介されているためとのことでした。さすが東京はインバウンドでも広がりがあります。境内には、宮乃め神社があり、安産の御礼に破れ柄杓が多数お供えしてありました。

最近府中周辺で、遺跡の発掘が進んでいるそうです。JR武蔵野線、府中本町駅前には、広大な空き地が広がっていますが、国府の御殿地・家康御殿との表示があります。家康は、秀吉から武蔵国に転付を命ぜられた時にここに邸を建てたそうです。空き地について、今後の利用計画は立っていないそうです。大國魂神社の東側には、国衙地区として、役所跡が発掘され、柱だけが復刻されています。

武蔵国国分寺の稿の最後で、武蔵国一之宮は府中の大國魂神社と記載しましたが、府中の大國魂神社は、武蔵国の各地にある神社の「総社」が正しい位置づけでした。
9月27,28日には、秋季祭(くり祭)が行われます。

大宮氷川神社は、武蔵国三之宮だそうですが、別の意味で現在の天皇家と関わっています。

農業に学ぶ選択と集中

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自宅で仕事をしていると、種々雑多な迷惑電話が入る。化粧品・保険から、お墓の売り込みまでお相手をしなければならない。電話を通して、相手の都合にかまわず、自宅の中まで土足で入りこむようなものです。

そのような電話の中に、かなり名の通った農業法人からの電話がありました。電話の内容は、一房千円で売れるイチゴが売れに売れているので、ガラスの温室を2棟増設したい。ついては、一口30万円で投資しませんかとのこと。配当は年7%で、良く言えば最近はやりのマイクロファイナンス。

和牛商法の匂いを感じながら、遊び半分で話を聞くと、1ダース1万2千円のパックが、お土産用に百貨店で売れるとのこと。値段はとにかく、十分に摘果をすることで高額商品を生み出す農法です。

利益を維持する経営手法として、選択と集中が注目を集めています。利益を生まない事業、将来性のない事業を廃して、経営資源を将来性のある事業や利益を生み出す事業に集中することで、企業の成長と発展を図る経営戦略です。その成功事例が、数多く出版されています。しかし、選択と集中は、言うは易く行うは難しの格言の通りです。

我が家の梅の木は、初めて豊作になった。豊作と言うよりは、豊作すぎたと言うべきでしょう。採れすぎです。実が小さいうちに、勇気を振り絞って弱そうな実を摘果した積りです。しかし、結果的には実をつけすぎたことは写真の通りです。青い梅は自宅の梅の実、少し熟しすぎた実は近隣の農家から分けていただいた物です。実の大きさは、半分以下です。折角実った梅の実を、この目で見ながら摘果するのは、蛮勇をふるう勇気が必要です。

企業外部のコンサルタントとして、選択と集中を提案することは経営理論として正しいが、現場の従業員の顔が見える経営者は、心を鬼にして実行しなければなりません。あるアメリカ企業が、アメリカ本土の工場を閉鎖するとき、現場の従業員の顔を知らない日本の支社長を、本社の社長に抜擢してリストラをやらせました。彼は、従業員を切って切って切りまくり、オリエンタルナイト・東洋の騎士と呼ばれているそうです。

「みちくさ」江戸歳時記5

水無月、梅雨の季節にもかかわらず晴れの日が続き、今日も深川の散歩を続けています。川沿いの梅の木は青い実をつけ、熟した丸い実を川面に散らしています。

丸いといえば、前回お話しました深川八幡宮(富岡八幡神宮)の境内奥の丸い大きな石の記念碑を思い出します。「カ持碑」と「力石(ちからいし)」です。深川では同じような丸い石を、散策する道筋にある神社や寺院でよく見かけます。調べてみると、これらはみな「力石」のようです。

「力石」はここ深川だけではなく全国にあるようです。「力石」とは、力較べに用いられる大きな石のことをいいます。力石の起源は石占いの一種で、かつてはこれを担ぎ上げることで、その年の豊凶を占つたといわれています。

隅田川沿いの日本橋や深川佐賀町界隈の神社仏閣には、たくさんの「力石」が奉納されています。江戸時代海上運送の起点として繁栄をたどる隅田川両岸には、大名の藩米を扱っていた浅草蔵前の札差の穀倉が川沿いに立ち並び、その荷役人夫たちが、娯楽のひとつとして力自慢を競っていたのではないでしょうか。これが19世紀には、祭りと喧嘩の好きな江戸っ子の気質に合い、寺社の祭りの催し物として盛んに行なわれるようになったともの思われます。

天保四年(1833)六月には深川八幡で、当時の将軍家ご上覧による一大興業が行なわれたそうです。「力石」は、幕府が人と人のぶつかり合いの相撲を禁止していたその間も、江戸庶民の楽しみとしてす社寺の祭礼の度に続けられ、江戸っ子の人気を博していたのでしょう。大相撲の始まった深川八幡に「力持碑」として記念碑があるのが分かるような気がします。

力自慢たちの心意気が遺された「力石」は、散歩道のスタートの豪商紀国屋文左衛門がお祀りしたといわれる「紀文稲荷神社」に始まり、成田山の別院の「深川不動尊」、江戸、明治と米問屋肥料問屋が軒を並べ商売繁盛を祈った「佐賀稲荷神社」と、訪れるたびに楽しませてくれます。「力石」には、力自慢の人達が差し上げることの出来た大石に、自分の名を刻み記念としたものや、思い人への歌や絵、店の宣伝などを刻んだものと色々なものが奉納されており、退屈させません。

現在「力石」は、木場の角乗りとともに、東京都指定無形民俗文化財(民俗芸能)「深川の力持ち」としてその伝統が受け継がれて、毎年10月の大東京祭で公開されております。

夏祭りを前にした深川八幡の境内はひっそりとしており、雨にぬれた「力石」が、逆に江戸深川の賑わいを想像させてくれてい

  深川八幡           紀文稲荷             佐賀稲荷

深川八幡2  紀文稲荷力石2  佐賀稲荷2

    

東北六魂祭

図2 図1

 

 

 

 

東北六魂祭(ろっこんさい)とは、東北6県の各県庁所在地の代表的な6つの夏祭りを一堂に集めた祭りです。2011年3月11日に発生した東日本大震災の鎮魂と復興を願い、同年より東北6県都で持ち回り開催されています。   
1回は仙台市・第2回は盛岡市・第3回は福島市・第4回は山形市で、今年は第5回で、530日・31日、秋田で開催されます。
メインイベントは、「6大祭りパレード」で、「青森ねぶた祭(ハネト)」・「盛岡さんさ踊り(さんさ踊り)」・「仙台七夕まつり(すずめ踊り)」・「秋田竿灯まつり(竿灯妙技)」・「山形花笠まつり(花笠音頭)」・「福島わらじ祭り(ダンシングそーだナイト)」が、大通りを一方向にパレードします。6つの祭りが一ヵ所で観られるので、とてもお得な感じです。
毎年約25万人の人出が見られ、初夏の東北のイベントとして定着した感がありますが、一方で、本来の東日本大震災の鎮魂と復興の趣旨がないがしろにされ、商業主義に走りすぎているのでは、との批判があり、「今回で終わり」との声も出ています。
本来、「お祭り」は「土着性」の強いもので、場所や時期が異なれば、本来の趣旨は大幅に薄まります。特に「東北の夏祭り」は、あの「暑さ」がないと盛り上がりません。
しかし、あの「3.11」でさえ、人々の記憶から遠くなり、忘れ去られてしまう、という寂しい現実があります。
六魂祭の実行委員会は、『今なお、多くの方々が住み慣れた土地を離れた生活を余儀なくされており、震災に伴う様々な課題を風化させてはならない、という想いを強く感じています。復興はまだ道半ばであり、震災を語り継ぎ、東北の絆をより一層深めていくためにも、六魂祭の継続は重要な意義があります。』と「祭り」の力を述べています。
「祭り」には不思議な力があります。「祭り」には「陽」と「陰」があり、「陽」では、暑い日射しの中の「鉦や太鼓」がウキウキとした高揚感を煽り、力が湧いてきます。「陰」では、闇夜に浮かぶ「提灯」や風に流れる「笛の音」が逝った先祖を偲ばせます。
3.11」を忘れないためにも、「六魂祭」は続いて欲しいと思います。今度の「六魂祭」はふるさと「秋田」での開催です。観に行きます。

武蔵国国分寺

東山道武蔵路 武蔵国国分寺武蔵国国分寺7重塔

    東山道武蔵路          武蔵国国分寺        武蔵国国分寺7重塔

ここのところ、東山道ネタが興味深く、今回も体力作り散歩の参考として、取り上げました。

下野の薬師寺は弓削の道鏡が流されたお寺として有名ですが、日本3戒壇院として、奈良・福岡・栃木に置かれたものの一つだったそうです。これとは別に、聖武天皇の詔により全国に国分寺が置かれました。栃木の国分寺は現在の下野市天平の丘公園に跡が残っています。車で行くと、近くの住宅地の中に東山道跡が整備されています。

埼玉県の国分寺はどこにあるのでしょうか。実は、武蔵国は現在の東京と埼玉を合わせた地域であり、武蔵国国分寺は東京、武蔵野線沿線の西国分寺から歩いて行ける所にあります。その途中に、東山道の上野国新田からの支線「東山道武蔵路」の復元遺跡があります。大規模マンション計画地の真ん中に位置していたため、公園として残したそうです。不思議な空間です。

緑豊な国分寺崖線を下ると、国分寺があります。この建物は、旧国分寺の金堂跡に新田義貞が再建したことに始まるそうですが、その後何度か再建されているようです。敷地の中には資料館があり、七重塔のレプリカが建っています。

当初の国分寺跡は、現在の国分寺の南側に大きな公園として残されています。桜の大木が立っており、華やかさを残しています。

東京の一部とは思えないような田園の雰囲気を楽しみつつ、崖線沿いの真姿の池湧水群を巡ると、この地が、天平時代から豊かであったことが想像されます。きれいな水の小川沿いに野菜の直売所があり、地震などの天災にも強い土地柄が伺えます。川沿いに進むと、ふくろう・みみずくを飼っている喫茶店もありかつての鷹狩の地を思い浮かべます。

国分寺駅前まで戻ると、駅前に三菱財閥の岩崎家の郊外の別荘だった、「殿ケ谷戸庭園」があります。南斜面で陽の光を大きく受ける明るい地形で、開放感溢れる大胆な庭は、武蔵野の山野を思わせる芝の庭から、谷地の水の流れまで心憎い設計です。やはり日本は水の国です。水の大切さを実感する散歩が楽しめます。

武蔵国一之宮は、ここから北上した府中の大国魂神社と案内されています。

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