経営承継事業部

カテゴリー:休憩室

フェイスブックで国際交流

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私の学生時代の国際交流は、戦後間もない時代で気軽に海外旅行や海外留学ができる時代ではなかった。どのようなきっかけであったかは記憶にないが、中国の甘粛省の学生と文通をしていた。もちろん文字だけのやり取りで、交流と言っても臨場感がない。文章を書くのが億劫になり、自然と交流は途絶えてしまった。

文章や顔写真だけでは、ジャパニーズ英語も加わって誤解も生じる。他人の笑い話ですが、ある日本の女性がフランスのペンフレンドに、マンションに住んでいますと知らせ、それを知ったフランスの女性が来日してびっくり仰天!その驚きに日本の女性もびっくり!!!

それもそのはず。本来のマンションは大邸宅、日本語のマンションはアパートメントハウス! 不動産業者の営業用の言葉の誤用が、とんだ事件を引き起こしてしまった珍事。ジャパニーズイングリッシュにご用心。その後の二人の友人関係は消息不明。

2008年に、ロジスティックスの研修講師として、1か月間カンボジアに滞在した。当時のカンボジアは、メールの普及率は低く帰国後の交流は途絶えたままの状態。2年後の2010年に再度研修講師としてカンボジアを訪れた。2年間の進歩は速く、ほとんどの受講生はメールを使っていた。とは言え、共通語は非母国語の英語での交流は途絶えがちになった。

2011年にカンボジアの受講生からFBの誘いがあり、交流が再開された。お互いに非英語国民であっても、写真が中心で文章は数行の英語だけなので気楽な交流。お互いに非英語国民ですから、ブロークンインイングリッシュも気楽なもの。

個人の日常生活がオープンになり、親近感が増してきた。個人生活だけでなく、日本と違い動画も多く社会の動きも見えてきます。遠くにいても、身近に顔の見える国際交流ができる場がフェイスブックです。

 

「みちくさ」江戸歳時記4

 

みちくさ「江戸歳時記」シリーズを書き始めてからちょうど1年になります。昨年は雪の中に咲く紅梅・白梅を取り上げましが、今年も梅の話題から始まりそうです。

鶯今日は暦の上では立春です。春の日差しに誘われて散歩に出ました。大寒波到来のニュースが嘘に感じられるほど穏やかな陽気から、今年も仙台掘り川沿いは梅の花が満開です。

満開の梅の小枝をふと見上げると、香りに包まれ緑に跳ねる鳥の姿が目に飛び込んできました。鶯です。なんと「梅に鶯」、ましては正岡子規の「鶯の身をさかさに初音かな」の姿そのものなのです。しかし残念なことに泣き声は「ホーホケキヨ」でなはく小さく「チチチチー」でした。気持ちは浮き立ち、歌舞伎の名せりふ「こいつは春から縁起がいいわい」と一声発し、節分のお参りにと深川八幡(富岡八幡神宮)へと足を向けました。

横綱お参りを済ませ境内を散策していると、最初に目に入るのが本堂右奥にある「横綱力士碑」です。明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立されました。この碑には初代明石志賀之助から第71代鶴竜関までの四股名が刻まれています。その大きさは高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンといわれ、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です。新横綱の誕生の際には、相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、鶴竜関も昨年の107日にその名を刻みました。また両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信、渋沢栄一等の当時の政財界の名士の名も刻まれ、各界とのつながりの深さ物語ってくれます。深川八幡が相撲との縁が深いのは、江戸勧進相撲発祥の地であるからなのです。江戸時代の相撲興業は京・大阪から始まりますが、当時は賭け事や勝敗を巡つてのトラブルが絶えないことから、禁令が出され一時中断しました。その後、深川地区の振興と火災で社殿を焼失していた深川八幡の復興を目的として春と秋の2場所の勧進相撲が許されました。その最初の地こそが深川八幡だったのです。以降約100年間にわたって本場所が境内で催され、1833(天保4)年以降は本所。回向院が勧進相撲の定場所となっていきました。私たちになじみの両国国技館が定場所として始められたのは、1909(明治42)年からのことです。

一方、当官の境内には、横綱顕彰碑だけではなく「大関力士碑」も大鳥居のすぐ脇にあり、隣には「巨人力士長身碑」や「巨人力士手形足形碑」があります。時代が移ろうとも、国技としての相撲とのつながりは延々と続いているようです。

また、この縁からなのでしょうか、清澄白川の横綱通り沿いには、大嶽部屋(大鵬)、北の湖部屋(北の湖)、綴山(寺尾)等の5つの相撲屋があり、散歩の最中にびんづけ油の香る若い力士によく出会います。

短い昼休みでしたが、今日もまた江戸の歴史を楽しみました。午後の仕事に頑張れそうです。

 

獅子舞

hanten_33昨年末、中学校時代の懐かしい仲間との「飲み会」が、地元与野でありました。4年に1度の「同窓会」は、所用が重なり参加出来ず、残念な思いをしたので、今回は万難を排し予定を確保し、出掛けました。理由は、「元カノ」に会えるからではありません。「獅子舞」の名手に会えるからです。「元カレ」とは、中学を卒業して以来、50年ぶりの再会となります。

とは言っても、「元カレ」が「獅子舞」の名手とは「同窓会」のYouTubeを見るまでは全く知りませんでした。https://www.youtube.com/watch?v=22vzgkai2wQ 

「元カレ」の素性は、「岡田民五郎社中」の主宰者で、地元さいたま市では「江戸里神楽」として有名で、「幸福を呼ぶ寿獅子舞」として、祝賀行事・結婚披露宴・企業の各種イベントに引っ張りだこで、テレビやCMにも出ているタレントでした。
http://okadatamigoro-shachu.com/

皆さんご存じのように「獅子舞」は、獅子頭を頭にかぶって舞う伝統的な民族芸能で、日本各地の正月行事や晴れの日に舞われ、幸せを招くと共に疫病退治や悪魔払いとして古くより伝えられています。獅子に頭を噛まれると、その年は無病息災で元気に過ごせるという言い伝えがあります。獅子舞は大自然の霊力を我々に授けてくれる不思議な芸能です。

日本での獅子舞の始まりは、16世紀初め、伊勢の国で飢饉、疫病を追い払うために獅子頭を作り、正月に獅子舞を舞わせたのが始まりといわれています。その後、17世紀に伊勢より江戸へ上り、悪魔を払い、世を祝う縁起ものとして江戸に定着し、祝い事や祭り事で獅子舞いが行われるようになったそうです。

獅子舞が日本の各地に急速に広まったのは、室町時代から江戸時代の初期のころに、「江戸大神楽師」、「伊勢大神楽師」と呼ばれる団体が獅子舞を踊りながら全国をまわり、悪魔払いをしたのがきっかけであると言われています。

日本の獅子舞には、大きく分けて伎楽系と風流系の二つの系統があるそうです。

伎楽系は、獅子の頭につけた胴幕の中に二人以上の人が入って舞う、「二人立ち獅子舞」が多く、これは大陸から伎楽の一つとして伝来したもので伎楽系の獅子舞と言われ、本州中部以西の西南日本で多く見られるそうです。

風流系は、関東・東北地方などで行われている鹿舞(ししおどり)と呼ばれるもので、鹿(しし)の頭をかぶり胸に太鼓を付けた「一人立ちの舞い」で、太鼓を打ちながら踊るものだそうです。

「岡田民五郎社中」は風流系の流れを汲む獅子舞ですが、息子が結婚式でも挙げる機会があれば、是非呼んで前途を祝ってあげたいと思います。また、支援している企業の創立記念日などでも、景気づけし、売上増加に寄与できればいいなと思いました。

安曇氏(阿曇氏)

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秋に安曇野の旅をしました。安曇野市穂高の穂高神社には、本宮の若宮に阿倍比羅夫が祀られています。日本書紀によれば、将軍として東国の蝦夷に遠征し樺太まで平定(?)している人物です。その後、中大兄皇子の百済の支援の戦いのため、ともに朝鮮半島に渡りましたが、白村江の海戦にて、新羅と唐の連合軍に大敗し、現地で戦死しました。神社の杜には銅像が建っています。海軍と山は不釣り合いですが、どんな関係なのでしょうか。

安曇氏(阿曇氏)は、古代海人族です。海神「綿津見命」を祖とする古代日本を代表する有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋字阿曇郡(現在の福岡市東部)とされています。安曇の名は海人津見(あまつみ)が転訛したもので、海人(海洋民族)が津見(住んでいる)古語とする説があるそうです。日本書紀では、応神天皇の項で「海人の宗に任じられた」、古事記では「安曇連は綿津見神の子、宇津志日金そ(木偏に訴の造り)命の子孫なり」とされています。

安曇氏は海と川を辿り移住した地とされる場所は、(福岡県の)阿曇から始まり、(長野県の)安曇・(岐阜県)厚見・渥美(三河国)・泉(和泉国)・(伊豆半島の)熱海・(福島県)安積・飽海(出羽国)など広く分布しています。ヤマト政権の拡大と関係しているとの説もあります。阿部比羅夫戦死後、安曇氏の本拠地は長野の安曇野に移ったのです。銅像の近くには、道祖神が夫婦和合の姿を示しています。

那須の東山道を歩いていて、当時の大和政権の様子が気になって、歴史書を読んで驚きました。東山道をはじめとする五畿七道は、7世紀中頃には建設が始まり、租庸調の税の納付のルートとして、兵隊の移動に、重要な意味を持っていたのです。当時の東山道のルートは、近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野の国を進みます。信濃では、諏訪から和田峠を通って上田に抜けており、安曇野はルートにはのっていませんが、安曇野は、兵の供給元になっていたようです。

那須國造碑にしても、安曇氏の広がりにしても、当時の東山道というインフラなくては成立しなかったようです。圧倒的な軍事力と、独裁政権が産んだ道路網は、今や田畑の下に埋もれています。一度近くの遺跡を訪れてはいかがでしょうか。東山道武蔵路の遺構は、中央線西国分寺駅から武蔵国国分寺への散歩道にあります。
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/shisetsu/kouen/1005196/1004221.html

那須国造碑

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地方分権と東山道

那須地域を廻っていた時に、国宝「那須国造碑」の案内が気になっていた。今夏の一日、歴史好きの仲間と那須を巡ることになり、笠石神社にて、10分程度の時間を取って、石碑を見学することにした。当該碑は、宮城県にある多賀城碑・群馬県にある多胡碑と合わせて、書道史の上から日本三大古碑と称されている。現在は、歴史資料としての価値から、国造碑のみが、国宝に指定されている。(他は重要文化財・特別史跡)

那須地域は、天平の時代は、東山道で都と直結していた、文化の先進地である。那珂川町馬頭の武茂川でとれた砂金が、東大寺の大仏の金鍍金に使われていたとの記録もある。また、大田原市が、現在単位あたりで、栃木県内最大の農産物出荷地帯であることは、地方分権での農業生産の面から、当時の都への人・物の税負担の貢献も伺われる。

東北自動車道を矢板ICで下りて、田舎道を進むと、大きな売り場を持った、農産物直売所の売り場が出てくる。ゴルフ場も多数あるが、経営不振コースは、身売りしてメガソーラー発電所が計画されている。那須与一の墓のある玄性寺をお参りすると、飛鳥地方の里山の風景が広がっている。鮎で有名な那珂川から支流の箒川に囲まれた地域は、平らな農地が広がっている。

笠戸神社の社務所に声をかけると、ご神体となった石碑の収まった祠の鍵を開けてもらえる。その前に、碑の歴史について神主さんのお話を聞くことをおすすめする。造られた西暦700年(特定されている)の東アジアの風景から、活躍した人々が、浮かんでくる。那須国造から那須評そして那須郡へと、地方豪族による分権から、細分化した統治体制確立による中央集権国家への道を歩んだ経緯も証明されている。

碑は、薄暗い社に収まっているが、当時最先端の新羅の石彫りの技術である薬研彫で、永く土の中に埋まっていたため、1300年の経過がなかったようなきれいな状態である。じっと見ていると、文字が浮かび上がってくる感覚に襲われる。碑を作った最後の那須国造の息子は、飛鳥の都に何度足を運んだんだろうと思うと、飛鳥の山里が近く感じてくる。

大幅に超過して1時間を超える見学となってしまった。昼食は、近くの那珂川町の新名物「温泉トラフグ天丼」にした。予約すれば、ふぐさしもお昼に食べられるそうだ。サントリー美術館を手がけた隈研吾さんの、馬頭広重美術館を見学して、ミュージアムカフェでコーヒーを飲んでも、首都圏からゆっくり日帰りで行けるポイントである。

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